2017年12月21日木曜日

矢文にみる島原の乱―その①―

 ■はじめに
 寛永14年秋にはじまり、翌15年2月28日(西暦1638年4月12日)に終結した島原・天草地方の「転びキリシタンの立上り事件」―島原の乱について、日本史は一貫してこれを「農民(百姓)一揆」と解説し、紹介してきた。
 「百姓(農民)一揆」とは、「幕藩体制下の百姓身分の者を中心として、幕府や領主の年貢の収奪強化などに抵抗しておこなわれたもの」(山川出版社『日本史小辞典』2007)である。―この定義によって島原の乱を検証してみると、乱の行動参加を呼び掛けた「寿庵の廻文」にも、また籠城して幕府軍に射た「矢文」にも「藩に対して蜂起することも、訴訟することも書かれていない」。それどころか、彼らは「国郡など望み申す儀、少しも御座なく候」、「国家を望み、国守を背き申す様に思(おぼ)し召さるべく候か、聊(いささ)かその儀にあらず候」と、矢文をもって重ねて「百姓一揆」でないことを否定しているのである。
 ―どうも様子がおかしい、と気付き、従来の農民一揆説の矛盾を指摘したのは神田千里氏(註1)であった。
 神田氏は、加えて彼らが住民にキリシタンを強要していることを取り上げ、「もし重税に講義して蜂起することが目的なら、相手が蜂起に同意しさえすればよいことであり、キリシタンであろうと、異教徒であろうと差し支えないことではないだろうか。…むしろ、単に藩への蜂起を促すだけであれば、ことさらキリシタンになることを強制することは、却って相手の村を同意しにくくさせるのではないか。」と述べている(同氏著書『島原の乱』57頁)。
 
 ■「立上り」の意味
 筆者は、同事件の第一当事者である籠城キリシタンの文書史料を中心にこの事件の真相解明に取り組み、2013年12月(註2)以来、島原の乱が「転びキリシタンの立上り事件」であることを紹介してきた。
 その過程で判明したのは、キリシタン文書に出て来る「立上り」という言葉を、ほとんどの研究者が「蜂起・訴訟」の意味に捉えていることであった。―はたして、そうであろうか。この言葉の読み違えこそが、島原の乱事件の読み違えにつながっているのではないかだろうか。
 農民一揆にしては藩や国に何の要求もしていないとして、その矛盾を指摘した神田氏自身、著書『島原の乱』(中公新書・2005年刊)の副題を「キリシタン信仰と武装蜂起」とし、本文でも「キリシタンが蜂起した」、「大規模蜂起」と繰り返し、「立上り」を「蜂起」の意味に読み替えて述べているのである。
 たしかに彼らは役人の殺害、寺社放火など「蜂起」と紛らわしい行動を取った。
 これについての彼らの説明は、「この度、下々として嶋原天草両所の儀、御取り掛かり候につき、防ぎ申したる分に候」、である。つまり、自分たちの「立上り」行為を役人たちが邪魔し、「取り掛かって」きたので、防戦したに過ぎない、と言っているのである。
 矢文にある、このような籠城キリシタン側の言い分についても、残念ながら十分には検討されてこなかった。

 さて、籠城キリシタンが言う「立上り」の意味とは何か。―それは、「転びキリシタンが再度、キリシタン宗に戻る行為、再改宗」のことである。(つづく)

 ※註1…神田千里(かんだ・ちさと)。1949年(昭和24年)、東京都生まれ。東京大学文学部卒。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学)。高知大学人文学部助教授、同教授を経て、東洋大学文学部教授。専攻、日本中世史(中世後期の宗教社会史)。著書『島原の乱』(中公新書)は2005年10月25日発刊。
 ※註2…2013年12月21日、有家コレジヨ文化講座「四郎法度書にみる島原の乱」。
神田千里著『島原の乱』(中公新書・2005年刊)

 
 

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