2017年12月31日日曜日

矢文にみる島原の乱━その⑤―

 籠城キリシタンが再三にわたって「松倉様への恨み、これ無く候」と主張していたにもかかわらず、幕府側がそれでも「一揆」であるとしたのは、もしかしたら原城結集に至るまでの過程で取ったキリシタンの行動━役人の殺害や寺社放火、島原城に押し寄せたことなど━に拠るのであろうか。
 しかし、これについても彼らは、自分たちから一揆的な行動をしたのではない、「嶋原天草両所の儀、御取り掛かり候につき、防ぎ申したる分に候」、と説明する。自分たちは、ただ「立上り」の行為をしたまでであるのに、これを役人らが妨害し「取り掛か」って来たので、「防」戦したに過ぎない、と言うのだ。
 それなら何故、寺社の放火破壊をもしなければならないのだろうか。一揆と見間違えやすいこの行為こそ、じつは彼らがいう「立上り」のための「きりしたんの作法」の一つであったのだが、これについては幕府にも理解してもらえなかったようだ(註1)。

「禁教令」が問題であると指摘
 矢文に記された主張の中で、彼らが敢えて問題点として上げているのは、幕府が1614年(寛永18年臘月)に発令した禁教令のことであろう。矢文2に、「きりしたん宗旨は…別宗に罷り成り候こと、ならぬ」ことであるのに、「天下様より数カ年御法度仰せ付けられ、度々迷惑致し仕り候」、とある。
 ━彼らは、幕府の禁教令によってキリシタンを「転び」、強制的に寺院の檀家にされていた。それがいかに侮辱的であり、キリシタンとして致命的なことであったか、「悲嘆身に余り候」との言葉から、その一旦を窺い知ることができよう。そうであるから「此のごとくの仕合わせ」に至ったのだ、と言っているのを見ると、幕府の禁教令こそが彼らの「立上り」行為を引き起こす要因であった、と言えるのではないだろうか(註2)。

 「転び」ながら、仕方なく仏教徒として生きてきたものの、何年経っても禁教令が解除される見込みはない。このままでは「後生の助かり」、「アニマ(霊魂)の救い」を逃してしまうことになる。そのように追い詰められた状況の中で、「天人・天草四郎」の出現があり、「不思議の天慮」に導かれて「(信仰が)燃え上がり」、死を覚悟して(註3)「立上り」の一斉行動に至った。━矢文をもって説明される彼らの行為の動機は、そのように読み取ることができるであろう。

「別宗に罷り成り候こと、ならぬ故に…」
 最後にもう一度、矢文2の次の文面に注目してみたい。

 「今度、下々として籠城に及び候。若し国家を望み、国守を背き申す様に思し召さるべくか。聊か其の儀にあらず候。きりしたんの宗旨は前々よりご存知のごとく、別宗に罷り成り候事、成らぬ故に御座候。」

 「…別宗に罷り成り候こと、ならぬ故に…」の「故」は、理由を意味する言葉である(註4)。意訳すると、「このたび原城に籠もったのは、幕府や藩に何か要求があってのことではない。キリシタンの宗旨は、別宗に罷りなってはいけないのに、転んで仏教徒になっていたからである」、となる。
 すなわち「矢文」によって籠城キリシタンが説明する事件の真相は、彼ら自身の一方的な理由━「転び」が原因であり、それより「立上り」、再びキリシタンに戻るためであった、と解することができる。

あとがき
 代表的な矢文3通をもとに、キリシタン側から島原の乱事件を検証してきた。
 彼らの「立上り」行為の遠因に「転び」があり、それは幕府や領主の禁教令・圧政に屈した自らの責任であったこと。ゆえに他への「恨み」を動機とする一揆的行動ではなく、失った「後生の助かり」、「アニマ(霊魂)の救い」を取り戻すため、キリシタンに帰る「立上り」の行動であったことが判明した。
 ところで「転び」から「立上る」行為は、「きりしたんの作法」である秘蹟(さからめんと)━具体的には「ゆるしの秘蹟」として為されるのが原則である。司祭の介在のもと、「こんちりさん」、「こんひさん」、「さちしはさん」の三過程で成就される「ぺにてんしやのさからめんと(ゆるしの秘蹟)」が、「立上り」行為によっていかに成されたかについては、稿を改めたい。(この稿おわり)

 ※註1…「キリシタン立上り」の作法の一つが、転び証文を取り戻す行為であった。寺院や島原城に押しかけ、その破壊行為をなしたのは、転び証文を処分する目的があった。本ブログの「転び証文を取り戻す寺社放火―島原の乱を解く⑦」(2016年1月13日付)、「転びキリシタン立上りの作法(1)―転び証文の取り扱い」(2017年5月15日付)、「転びキリシタン立上りの作法(2)―転び証文取り戻しの事例」(2017年7月15日付)参照。
 ※註2…複数の矢文は、幕府の禁教令こそが「迷惑」の原因であると訴えているように見える。かと言って、幕府に対して「恨み」があるかと言えば、松倉氏の苛政と同様、「天下(幕府)への恨み、これ無く(候)」と言い、「恨み」が立上りの原因ではない、としている。
 ※註3…死を覚悟して「立上り」行為に出たことは、矢文1の「我々を御ふみつぶし候の後、御がてん成らるべく候」、矢文3の「片時も今生の暇(いとま=死に去ること)希(ねがう)計(ばかり)に候」によって知ることができる。
 ※註4…矢文2は、一般には熊本細川藩の史料によって紹介されることが多い。それによると「…別宗に罷り成り候こと、成らぬ教(おしえ)にて御座候」と、「故」が「教」になっている。筆者は同文の矢文を佐賀鍋島藩と萩毛利藩の記録に探し、いずれも「故」となっていることを確認した。
「別宗ニ罷成候事、不成故御座候」とある萩毛利藩記録の矢文2

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