2017年11月26日日曜日

清田鎮忠・ジュスタ夫妻の男児の有無に関する考察

                ドン・フランシスコ大友宗麟とその家臣について、イエズス会の報告書は多くの頁を割いて紹介している。なかでも長女ジュスタが嫁した清田鎮忠と同一族に関する記述は顕著である。
一方、清田家の子孫が伝える同家先祖についての史料もある。
両者は基本的に一致するが、異なる記述もある。最大の齟齬は、イエズス会が「彼ら(鎮忠とジュスタ夫妻)には男の子がなかった」(註1)とするのに対し、日本側の史料は鎮忠には嫡男・鎮隅、次男・五郎大夫がいた、としていることであろう。
筆者は2017年10月、清田五郎大夫家のご子孫清田泰興氏からその問題の指摘を受け、双方の史料を比較考察しながら数回にわたって意見を交わした。
本小論は、表題の課題に対する試論である。

結論を先に言うと、これは、鎮忠には実際、男の子供があった、としなければならないと考える。ただし、嫡男「鎮隅」と次男「五郎大夫」については、清田鎮忠が後室として迎えた大友宗麟娘ジュスタとの間の子供ではなく、前室・一色殿娘の子であること。そして、「鎮乗」はやはりイエズス会が指摘するように、「彼ら」すなわち鎮忠とジュスタの間「には男の子がなかった」ため「養子に迎えたドン・パウロ(志賀親次)の兄弟」であった、と思われる。

嫡男鎮隅、次男五郎大夫のこと
『太宰管内志』、『清田家旧記』などに出てくる「鎮忠の嫡子・鎮隅」なる人物は、天正15年(1587)豊前長野一揆に出陣し、そこで命を落としている。これから判断して、同年(1587年)当時、彼はすでに大人であったことは確かである。すなわち、ジュスタ(宗麟娘)と鎮忠が結ばれるのは1575年頃であるから、翌年(1576年)長男・鎮隅が生まれたとしても(ジュスタの子であるなら)「11歳」にしかすぎない。ゆえに鎮忠の男子、長男「鎮隅」、次男「五郎大夫」は前妻の子供であったと見るのが妥当である。これについては両者の母が「大友宗麟の娘」と明記されないことからも裏付けられる。

イエズス会記述の問題
次に、イエズス会が鎮忠とジュスタ夫妻と接したのは、あくまでもキリスト教布教という接点においてであるから、イエズス会は鎮忠の前歴を把握していなかった。と言うより、イエズス会が鎮忠に聞き取り調査をしたとき、鎮忠自身もイエズス会にその件を言う必要がなかったし、実際、言わなかったであろう。
清田鎮忠が主家である大友家から夫人を迎えたとき、清田家より主家大友家の家系を優先するのは、武家社会における主家と家臣の主従関係からしても当然のことであった。
しかし、ジュスタとの間に生まれたのは「女子」のみであった(註2)。そこで取られる措置は、ジュスタの娘―または連れ子―に養子を迎えることである。それが「1586年度イエズス会年報」に見られる記事―「彼らには男の子がなかったので、ドン・パウロ(志賀親次)の兄弟を養子とした」―ことであった、と考えられる。

「鎮乗」の母は大友宗麟娘
この「ドン・パウロ志賀親次の兄弟」なる養子は「鎮乗」であり、志賀(林)家系図から判断される「志賀浄閑(寿閑)」であった。イエズス会の「1588年10月2日付、臼杵発信、ペロ・ゴーメスのアレシャンドロ・ヴァリニャーノ宛書簡」は、「同人(迎えた志賀家からの養子)に洗礼を受けさせ、その名をドン・ペドロとした。」と伝えている。
ドン・ペドロ鎮乗は鎮忠・ジュスタの「養子」であるが、「娘婿」であった。これが清田家の記録で、「寿閑(鎮乗)」についてのみ「母は大友宗麟娘」と記し、それ以外の嫡男鎮隅、次男五郎大夫については、その記述がないことの理由であろう。

キリシタン禁制時代における清田家系図
以上がキリシタン時代における清田鎮忠家の実際ではなかっただろうか。
ところが、徳川時代に移るとキリシタン宗が「御法度(禁制)」となり、状況が一転する。すなわち家系にキリシタンが存在した場合、「切支丹類族」として七代にわたって監視下に置かれことになり、これを消去または隠蔽する必要があった。
清田家の場合、キリシタンであった「鎮忠・ジュスタ」、「その娘」については「血筋」が「キリシタン類族」として仕分けられ、管理される。これを証明するものとして、細川藩の「(切支丹)類族帳」に、「私(細川家)家来清田石見母転切支丹凉泉院系」というのがある。この中に出ている「凉泉院」は清田石見の母、すなわち大友宗麟の長女ジュスタの娘であろう。志賀家から養子として入った夫「清田(志賀)鎮乗、后寿閑」と「凉泉院」の子孫が「転切支丹」として監視されていることが判明する。
こうして本来、鎮忠・ジュスタの娘とその夫(志賀鎮乗)によって継続されるべきであった清田鎮忠宗家は、藩政時代に入ると傍系に転じ、その一方で、キリシタンでなかった(と思われる)鎮忠の前妻の子供「鎮隅」、「五郎太夫」の家系が、同家の正統の位置を確保することになる。


※註1…「1588年10月2日付、臼杵発信、ペロ・ゴーメスのアレシャンドロ・ヴァリニャーノ宛書簡」
※註2…「1578年10月16日付、臼杵発信、ルイス・フロイスのポルトガル・イエズス会司祭・修道士宛書簡」―「彼ら(清田鎮忠・ジュスタ)には二歳くらいの娘一人のみあって…」
「1580年10月20日付、豊後発信、ロレンソ・メシヤのイエズス会総長宛1580年度日本年報」―「嗣子となる幼い娘」
熊本細川藩の切支丹類族帳に見る「清田石見母転切支丹涼泉院系」(部分)





8 件のコメント:

  1. このコメントは投稿者によって削除されました。

    返信削除
  2. これは、長崎歴史文化博物館に所蔵されている長崎志賀家の家系図によるものです。長崎志賀家は豊後国からのがれ、17世紀初頭、淵村の庄屋に抜擢された家系ですが、志賀宗家(北志賀家)の流れになるものです。同系図には、親益―親守(道輝)―親孝(道易)と続き、親孝の兄弟として、浄閑、宗頓、女子、親次、女子、女子、某(左門)が併記されています。この史料は(原本は長崎原爆被爆により劣化している)平成20年8月、志賀昭夫氏が写真撮影版を「志賀家系図」(非売品)のタイトルで発行されています。長崎県立図書館(現在、閉館中?)に所蔵されています。

    返信削除
    返信
    1. このコメントは投稿者によって削除されました。

      削除
  3. このコメントは投稿者によって削除されました。

    返信削除
    返信
    1. このコメントは投稿者によって削除されました。

      削除
  4.  清田鎮忠の家系については、彼が1587年、豊後国を追われ、長崎に至って同年暮れ、死去したこと。また、婦人のジュスタは、長崎でキリシタンとして豊後から長崎に逃れたキリシタンたちの世話をしたあと、1614年幕府の禁教令発令後は「かくれキリシタン」として密かに過ごし、最期、淵村庄屋となった豊後出身の志賀氏を頼って1627年に死去したことなどから、正式な記録は分かりません。ただし、鎮忠の息(実は志賀家からの養子)鎮乗夫妻に関する記録は、彼らが細川藩に「切支丹類族」として抱えられているので、細川家史料にあるようです。私はイエズス会宣教師の記録に、今まで知られていなかった史実がいくつかあるのを知り、―これは当年に記録された一級資料であるので大いに参考になると思われますが―、従来唱えられて来た諸説と照合しながら、史実を探っている者です。
     お尋ねの第二点、「鎮乗は婿養子(志賀親次の兄弟)ということが書かれているのでしょうか」ということですが、これはイエズス会宣教師の記録「1586年10月2日付、臼杵発信、ペロ・ゴーメスのアレシャンドロ・ヴァリニャーノ宛書簡」に、「彼ら(清田夫妻)には(男の)子がなかったので、ドン・パウロ(志賀親次)の兄弟を養子にし、ドン・パウロが…同人に洗礼を受けさせ、その名をドン・ペドロとした」と記録されています。(拙稿―『16/7世紀イエズス会日本報告集』による清田一族にかんする記録(史料)」―2017年11月8日付、本ブログ記載―参照のこと)。
     「志賀親次の兄弟」が誰であるのかは、父・清田鎮忠と母・ジュスタ(大友宗麟の長女)の息子ですので、日本側清田氏関連史料で「鎮乗」であることは明白です。その母が、ご指摘の通り「大友義統の姉」であることも事実でしょう。ただし「大分県立図書館所蔵」の当該史料(系図)に、(カッコ)して「大友義鎮の長女の本源院・ジュスタ」とあるのは、おそらく後世、誰かが書き入れたものと思われます。キリシタン宗が御法度であった藩政時代、キリシタンであった人物は忌避されますので、キリシタン大名として名高い父・大友宗麟との関係、またはその長女の洗礼名ジュスタをもって記されることはないと思われます。
     鎮乗が「寿閑」とされているのは、日本側の史料―清田家史料(細川家?)―にあるようです。「志賀親次ドン・パウロの兄弟」で、清田鎮忠家に婿入りした人物を志賀家本家系図に探すと、「寿閑」はありませんが、「浄閑」という人物が「親次の兄弟」にあります。これら複数の史料の裏付けをもって、行き着くところ、「浄閑」が「寿閑」であると判断した次第です。この点はあくまで、根拠をもっての推察であることをお伝えしておきます。
     ご活躍を祈ります。
     鎮乗の三男の家系ということですが、ご先祖にかかわる史実が、いくらかでも明らかになることを期待します。

    返信削除
    返信
    1.  ありがとうございます。
       (カッコ)して「大友義鎮の長女の本源院・ジュスタ」というのは、今日、コメントの時に説明のために私が書いたものです。大分県立図書館所蔵」の当該史料(系図)には「大友義統姉」ということが書いてあります。とにかく、「大友義統姉」というのは大友義統より年長の姉(一条兼定継室のち清田鎮忠継室)のことでしょう。
       ネット上ですので、詳しくは書けませんが、私などは、あるところから女系ですが、清田何右衛門(清田鎮乗の三男)の系統に繋がっているということです。
       大分県立図書館所蔵」の当該史料(系図)に、清田鎮乗のことを「寿閑」と書いてあります。「清田鎮乗は志賀浄閑」ということは、そちらのブログで知りました。
       ご指摘の通り、「彼ら(清田夫妻)には(男の)子がなかったので、ドン・パウロ(志賀親次)の兄弟を養子にし、ドン・パウロが…同人に洗礼を受けさせ、その名をドン・ペドロとした」ということが記録されているとのことですし、志賀親守の庶子の浄閑が寿閑(清田鎮乗)であろうとう根拠をもっての推察であることを思い知らされました。お蔭様で、明らかになりましたことは素晴らしい出来事です。嬉しいです、感激です。ありがとうございます。
       清田鎮乗の二男・三男・キチ(細川忠興側室)などは図面には省かれていますが、省かれている人も清田鎮乗と清田凉泉院(清田鎮忠と大友義鎮の長女との間の娘)との間の子であれば良いと思っています。

      削除
  5. このコメントは投稿者によって削除されました。

    返信削除