2022年12月3日土曜日

カタリイナ永俊⑥

  ここから後編として、薩摩国鹿児島藩時代のカタリイナ永俊について述べたい。

喜入忠政のこと

 島津家本「旧記雑録後編六四」によると、カタリイナ永俊が夫島津忠清(1571-1645)とともに一女(11歳=桂安)一男(7歳)を伴い薩州鹿児府に赴いたのは「慶長14年(1609)12月3日」のことであった。その半年以前(1609年春)、薩摩国川内京泊を拠点に布教を展開していた托鉢修道会の一派・ドミニコ修道会が薩摩国から追放され、長崎に避難しているので、両者には何らかの因果関係があると思われる。島津忠清・カタリイナ夫妻が長崎を経由して鹿児島に戻った直後(註1)、有馬晴信は長崎港沖で黒船マドレ・デ・デッサ・セニューラ・ダ・グラッサ号を撃沈した。それは晴信がイエズス会と謀り、鍋島領藤津郡―ドミニコ会が1606年、三つの教会を建て進出したところ―を奪回するための作戦でもあったが、このあと岡本大八への賄賂、さらには長崎奉行暗殺計画が暴露されるに至り、計画は挫折した。晴信は甲斐国初鹿野丸林で処刑され、その過程で息子・直純は正妻マルタ(妙身)と離縁し、家康から提示された孫娘・国姫と結婚した。述べたように、1612年度イエズス会日本年報はマルタ(妙身)が島原半島北西に位置する千々石(ちぢわ)の山中に追放され「藁小屋の中に置かれた」と伝えている。

 晴信処刑事件のあと1614年1月(慶長18年12月)、幕府はキリスト教禁止令を発布し、同年11月、キリシタン・宣教師らを国外に追放した。有馬氏もまた同年7月、長年住み慣れた故郷高来(島原半島)から追放され、日向国縣(あがた)に移った。有馬氏の旧領高来は、晴信がイエズス会とともに30年余りかけてキリスト教教化政策を推進し、全住民がキリシタンとなっていた。幕府がこの地に遺されたキリシタンの一掃作戦に着手したのは、大追放事件直後の1614年11月下旬である。「(幕吏)山口勘兵衞直友は長崎奉行長谷川左兵衛と謀り、肥前・薩摩の兵一万を徴して有馬に赴いた」(註2)。この時、薩摩から派遣されたのが、のちにマルタ妙身を後妻に迎えることになる喜入忠政である。「忠政は家臣・田代内記清友、田代三右衛門清方、酒匂源兵衛、松元平兵衛らを率いて長崎に赴き、山口直友の下に属してその命を聞き軍功を立てた。」とされるが、その際、不思議な行動を取った。「薩摩兵は海岸に沿って東に向かい、三会・島原の村村へ行き、キリシタンたちにしばらく山に退くように指示し」、長谷川左兵衛・山口直友には「この地にはキリシタンは一人もいない」、と偽って報告をしたというのだ(註3)

 喜入忠政という島津氏家老は如何なる人物であったのか、この一件である程度推察できるであろう。彼は役人として政治的に動くことはあったとしても、中身は求道者であり、徳を備えた人であった。その後、カタリイナ永俊の仲介があったかもしれない、連れ子のあるマルタ(妙身)を後妻に迎え、藩主島津家久の家老として誠実に奔走することになるが、義母カタリイナ永俊と彼女の庇護を得て集まった明石掃部子・小三郎、小三郎を雇い入れていた町の商人・しゅあん上山又左衛門、旧豊臣氏のキリシタン遺臣らを別の側面から擁護する中心的存在、影の理解者であったと思われる。連れ子の於満津(有馬直純の娘、のちに基太村元茂に嫁ぐ)、忠政とマルタ妙身との間に生まれた娘・於鶴も最後、種子島に遠島幽閉され、カタリイナのもとに送られたのは、同じく「きりしたん宗門ゆえ」であった。背景にマルタ妙身の夫喜入忠政の理解と擁護があったことは間違いない。幕府のキリシタン禁圧政策が厳しくなる中で、最終的には恭順の態度を取らざるをえなかったが、その狭間で生きた喜入忠政、そして彼を支えた家臣田代一族らの苦悩の日々があった。これは、カタリイナ永俊のキリシタン史を語る一方で、記憶されなければならない歴史である。

 鹿児島県枕崎市桜山本町の長善寺裏山に、喜入家累代墓地がある。五代季久からのもので、6代、9代を除いて19代まで並んでいる。7代忠政(忠続)の墓は最初の5代季久の次に建立されたが、その位置は5代墓地からさらに山奥に入った隠されたような場所にあり、しかも家老格に不相応な円塚(まるづか=土饅頭型)である。「キリシタンゆえ」に幕府から処刑されたカタリイナ永俊の養父・ジョアン有馬晴信(1561-1612)の墓も、山梨県甲州市初鹿野の山中に佇んでいるが、同じく「円塚」である(註4)。喜入忠政は隠れのキリシタンであったか、もしくは妻マルタ(妙身)のゆえに「きりしたん類族」として正式の墓碑が建立できなかったものと考えられる(註5)。(つづく)

写真】(左)喜入忠政の墓(枕崎市長善寺墓地)、(右)ジョアン有馬晴信の墓(甲州市初鹿野)=1944年、中村星湖のスケッチ。
【写真】喜入家累代墓地の墓碑に刻まれた花十字家紋


註1】…「種子島家譜五」に「然者其地へ永春(永俊)逼塞にて候、如御存知之彼御方之儀きりしたん宗之由候而…最前従長崎被参候時持参之道具共御座候つるを以御検者被焼捨…」とある。

註2】…『枕崎市史』(1969年発行)261頁。ドミニコ会史料『ファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ神父伝記・書簡・調査書・報告書』(1994年・聖ドミニコ修道会発行)は、「(1614年)諸教会を打ち壊し、また神父たちを追放したので、左兵衛はキリシタンたちを叩きのめすのは簡単なことのように思われた。そして、それを実現するために、主だった者たちと大村・平戸・肥前・筑後の諸藩から多数の兵士たちを集めました。彼はここに集合させ、また多数の刀、火縄銃、槍や弓を準備して有馬に出立し、有馬の古い名である高来(たかき)郡全域に布告を発して、全員が棄教するように命じた。」と記している(同書94頁)。

註3】…レオン・パジェス『日本切支丹宗門史・上』362頁。『枕崎市史』(1969年発行)261~262頁。

註4】…カタリイナ永俊は有馬晴信の養女であった(「國乗遺聞」)。マルタ妙身は晴信の息・直純の元本妻であったので、晴信は義父にあたる。晴信の墓「有賀八幡」は1944年、晴信の謫居跡を現地調査した中村星湖らによって、初鹿野の山中に存在することが確認された。

註5】…喜入家8代忠高はカタリイナの種子島配流の翌年(寛永12年3月5日)29歳で自決し、その妻(島津久慶の妹)も一ヶ月後(寛永12年4月18日)自決した。妻の兄・島津久慶(日置島津家)は藩の家老であったが、死後、キリシタンであったとして死体を掘り上げて磔にされた(枕崎市観光協会ネット掲載「枕崎の殿様喜入氏を探る」)。また『枕崎市史』には「久慶は家久公の家老で、異国方・宗門方を仰せつかっていたが、法名・処安(ジョアン)忠省とあるように、切支丹信者であった。…あるいは忠高夫婦も切支丹として自決したかとの推察もありうる…」とある(同史277-278頁)。鹿籠長善寺・喜入氏累代墓地にある8代忠高の墓も、7代忠政と同じく「円塚」である。


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