2022年12月15日木曜日

カタリイナ永俊⑧

 ■薩摩とイエズス会

 さて、ここまで見てくると、1609年(慶長14)、ドミニコ修道会が薩摩から追放された直後、カタリイナ永俊・島津忠清夫妻を鹿児島に呼び寄せ、その10年後(1620年)、カタリイナが薩摩国の「かご嶋」「せんたい」二つのコンフラリア信心会の「中心」となって、半ば潜伏しながら禁教時代におけるキリスト教布教を展開したイエズス会の意図が、ある程度洞察されるであろう。1614年(慶長19)禁教令が敷かれ、弾圧と国外追放を余儀なくされながら、それでも秘密の地下活動をコングレガチオ・コンフラリア組織を中心として(註1)模索しなければならなかった彼らにとって、薩摩はマカオとの連絡を取る上で欠かすことのできない中継地であり、宣教師を安全に送り出し、あるいは迎えて保護し匿うためのキリシタン組織を形成しなければならない土地であった(註2)

 1614年11月、長崎から二隻の船でキリシタン・宣教師らが国外追放された直後、1615年(元和1)に薩摩藩は矢野主膳なる人物を「南蛮船対策」の目的で長崎に送ったことがあった(註3)。彼がそこで何をしたのか、半ば謎に包まれているが、結果的に彼はそこでキリシタンとなり、その後、1624年(寛永1)頃、江戸に上がっている。寛永10年(1633)の証言によると、彼はカタリイナや、彼女が匿っている明石掃部の子・小三郎のことを承知していたのであり、薩摩キリシタンの一類であった。また、明石掃部子小三郎が「有馬から来た」(註4)とも証言しているので、「南蛮船対策」――実はその受け入れ対策であった――のみならず、国内にいるキリシタン浪人たちが薩摩に侵入するための便宜を図っていたのは事実である。

 これと関連することであるが、2010年、鹿児島鶴丸城跡発掘出土遺物の中に長崎の教会で使用された「花十字紋瓦」と同じものが含まれていたことが確認され、話題になったことがある。その鋳型は長崎出土の数種の花十字紋瓦の中の一つと同型であることから、鹿児島のカタリイナ永俊の関係者が、長崎に派遣されていた矢野主膳らと連絡して、長崎の教会の取り壊しによって廃棄された同瓦を移入したものであるにちがいない(註5)

【写真】同鋳型の鹿児島鶴丸城跡出土「花十字紋瓦」(左)と長崎サント・ドミンゴ教会跡出土「花十字紋瓦」(右)。

 また、喜入忠政とマルタ妙身との結婚について、筆者は「イエズス会の生き残りのための意図があった」と述べたが、喜入忠政本人は島津家の家老として鹿児島城内の屋敷に住みながら、彼の領地であった「鹿籠(かご=現枕崎市)」の田代氏ら家臣らと連絡を取り合い、宣教師らの密入国を〃安全に〃取り締まる任務をこなす必要があった。それはまた、薩摩半島の穎姪(えい)、河名部(川辺)、串木野、川内にある二つのコンフラリア組織とも連携してなされたことであり、その海の玄関にあたる重要地の領主としての喜入忠政にマルタ妙身が嫁いだというのは、母カタリイナとともにイエズス会の意図があってのことであろう。そして、喜入氏のそのような任務が重要であればあるほど、母カタリイナはキリシタンとして最も信頼のある実の娘――小西行長の遺児でもあるマルタを抜擢し、喜入氏に嫁がせたのであり、この母と娘の信仰的紐帯のもと、カタリイナを中心とする鹿児島の信心会「貴理志端(キリシタン)中」が運営された、ということである。

 そうであれば、喜入忠政かくれキリシタン説は――これを証明するのは困難であろうが――現実味を帯びて浮かび上がってくる。(つづく)

【写真】キリシタン時代の九州地図(部分)、日本の最南端・薩摩国はマカオ、マニラと連絡する最短位置にあり、弾圧時代、宣教師密入国の基地的役割を果たした。

註1】…一般の信心会コンフラリアが現地教区に所属するのに対し、コングレガチオはローマ本部に直属する精鋭会員の信心会であった。日本では1603年、有馬のセミナリヨに創設され、その後、豊後の「なんぐん(南郡)」にも組織された。H.チースリク著『キリシタンの心』(聖母の騎士社1996)436-437頁。筆者の「花久留守―キリシタン史研究ブログ」2018年6月22日付「欧文史料で読み解く豊後宇目のるいさ―付記②―」参照。

註2】…結城了悟氏は著書『鹿児島のキリシタン』「9港の冒険」で「1614年の追放後、…多数の宣教師が日本に戻ってくることができたが、…上陸しても日本にふみ留まっていた宣教師と連絡をとることは容易な業ではなかった。その為には生命を賭ける覚悟のある人々の協力が必要であった。…薩摩の諸港、ザビエルの経路という栄誉に輝くそれらの港においては、この英雄的な所業が再三にくり返された。」と述べている。

註3】…薩藩史料「元和6年閏12月29日付喜入忠政・伊勢貞昌連署状」に、「南蛮舟之儀ニ付北条土佐守殿・矢野主膳正殿長崎ヘ被相越…」とある。『鹿大史学12号』(1969)掲載「五味克夫・矢野主膳と永俊尼」。

註4】…「寛永10年9月19日付、江戸家老伊勢貞昌の国家老宛書状」に「然者主膳…内意ニ被申候…いかにもおんミつにて被申候、町ニ罷居候しゆあん又左衛門尉所へ筆者仕候而罷居候小三郎…あかし掃部子にて候よし…従大坂いつかたへ参、又御国へ参候様子共、此中御国へ罷居候つる儀細々御問付候て、早々此方へ可被成御申候、主膳被申候ハ、有馬より御国へハ参たる由…」とある(『鹿児島県資料旧記雑録後編・五』1985年鹿児島県歴史資料センター黎明館発行、383-386頁)。

註5】…鹿児島城に、長崎教会原案(もしくは由来)の花十字紋瓦を使用した建築物が存在するのは、長崎および高来(島原)との交流網を有していたカタリイナ永俊との関係以外では考えられない。その時期は、カタリイナが鹿児島に入った1609年以降、彼女が鹿児島においてキリシタン宗団の「中心」になる禁教令(1604年)以後のことであるので、長崎で廃棄された「花十字紋瓦」を移入したものであろう。

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