2022年11月10日木曜日

カタリイナ永俊③

 ■有馬氏の代官・皆吉氏「東殿」

 島原半島の有馬庄を本貫とする戦国大名有馬氏は、不受公・第十代晴純(仙巌)の時代に彼杵郡・藤津郡・杵島郡を領有し、さらに三根・佐賀・神崎郡をも支配下に入れて最大版図を獲得した。その後、佐賀の龍造寺氏が勢力を巻き返し、11代義貞、12代義純は戦に明け暮れた。そして13代晴信に至っては、味方の領主らの敵方への寝返りもあって、旧来の領地さえも蝕まれていた。窮地に陥った晴信は天正8年(1580)、受洗してイエズス会と連携し、さらに島津氏の支援を請うに至った。龍造寺との最終決戦となったのは天正12年(1584)、沖田畷の戦である。ほとんど勝算はなかったものの、海上から船で攻撃に加わったイエズス会提供の大砲が威力を発揮し、奇跡的勝利を収めた。それでも藤津郡など旧領地の回復が叶わなかったのは、沖田畷戦が島津対龍造寺の戦であって、有馬氏単独の勝利ではなかったこと。そして、島原半島北目が島津氏支配下に置かれたことに拠る。3年後の天正15年(1587)、秀吉の九州討征により島津氏の支配は解けたが、それでも祖父晴純が領有した佐賀の藤津郡の回復ができなかった。秀吉の同地に対する朱印状は、龍造寺本家の家督を継いだ政家の手にあり、晴信側にはまだ相応の力がなかったのだ。藤津郡奪回の試みはこのあとも継続された(註1)

 こうした戦国時代における有馬氏側の事情を見ていくとき、かつて「高来郡東郷と佐賀郡西泉の地頭職」にあった御墓野(のちの皆吉・東)氏が、有馬氏に帰属し、晴信時代には「有馬の最上位の代官」として重用された理由が頷けよう。外山幹夫氏(1932-2013)は著書『肥前有馬一族』(1997・新人物往来社発行)で、「有馬の地には東殿・西殿といわれる二人の代官がいて統治していた。…その地位はフロイスによれば〃身分の高い貴人〃であり、〃有馬の最上位の代官〃であった。」と記している(同書119頁)。二人の代官「東殿・西殿」のうち「東殿」が「皆吉氏」である。名前は「(東)権左衛門」。「皆吉久右衛門續能」の子であり、カタリイナ永俊の兄弟になる人物である。

■晴信の養女として行長に嫁いだカタリイナ

 有馬氏の「最高位の代官」皆吉氏一族の女性であるカタリイナが、キリシタン大名有馬晴信によってどのような扱いを受けたのだろうか。有馬氏の史書『國乗遺聞』には、皆吉續能の女(カタリイナ)が晴信の「養女」として記録されている(註2)。同書「巻之二、公子公室」の「晴信公」の項、「七公子」の記載のあとの次のくだりである。

 「御養女、御系譜記載セズ。/實皆吉久右衛門續能女。晴信公御養女トシテ小西摂津守行長。…

 「皆吉久右衛門續能の女」すなわちカタリイナが、小西行長の夫人であるというのは、「薩藩旧記雑録後編」所収の文書にも藩史局編者の見解として記されていた。有馬家の史料『國乗遺聞・巻之二』はそれが史実であることを証明してくれるものである。

 それだけではない。「皆吉久右衛門續能の女。晴信公の御養女として小西摂津守行長に嫁す」という一文は、カタリイナと小西行長との結婚が、キリシタン大名有馬晴信によってなされたことを意味するものである。つまりは、カタリイナはキリシタン大名小西行長と有馬晴信とを繋ぐ絆としての標(しるし)であったのだ。こうした背景が「1624年度年報」に見るような、弾圧の嵐の中にあって島津の藩主や家老たちの前でも怯(ひる)まない、信仰を敢然と表明する強い女性たらしめたのであろう。(つづく)

有馬氏最大勢力時代の領域図

註1】…晴信の藤津郡奪還の執念はこのあと、イエズス会の意図と重なって展開される。それは、薩摩国川内の京泊教会を経て1606年に佐賀・藤津郡に進出したドミニコ修道会を〈秘かに〉排斥するものであり、具体的には、①長崎港沖での黒船爆沈事件、②幕府の役人岡本大八を介する賄賂による藤津奪回の企て、③そして、大八の密告による晴信らの長崎奉行暗殺計画暴露事件へとつながり、最期、晴信の命取りとなった。拙著『ドン・ジョアン有馬晴信』第二章「一味同心・岡本大八事件」参照。

註2】…『國乗遺聞』は有馬氏研究の必須史料。近年、福井県文書館に「デジタルアーカイブ」としてその複写史料が保管・公開されるようになった。


2022年11月9日水曜日

カタリイナ永俊②

 ■カタリイナの出自―皆吉氏は有馬の家臣

 茂野幽考氏が著書『日南切支丹史』(1951年発行)でカタリイナ永俊を取り上げたのは、戦後間もない頃であった。すでに70年余が経っている。それでも彼女の出自である皆吉氏のこと、キリシタン大名・小西行長との関係など、いま一つ謎に包まれたままであるのは、述べたように宣教師の記録が少ないことに加え、彼女の足取りが薩摩藩のみならず肥後(熊本)、肥前高来(たかき=島原)、長崎など広域に跨がっているため、邦文史料の確認が容易でないことに依るものと思われる。

 筆者は20年ほど以前(西暦二千年前後)、鹿児島のキリシタン史で肥後国南部の小西領にいたキリシタン約1500人が、関ヶ原戦後の1600年暮れ、八代(やつしろ)から舟60隻で鹿児島領に避難した史実に接し、興味を抱いたことであったが、その後、地元島原(高来・有馬)のキリシタン史の調査に没頭した(註1)。今ふたたび、鹿児島のキリシタン史―とくに関ヶ原戦(1600年)で豊臣秀頼に与したキリシタン武将らが薩摩領に潜伏し、カタリイナ永俊と連絡を取り合っていた史実等に接し、改めて同地がキリシタン史に果たした役割の重要性を認識する一方、記述史料の一部に誤りがあることに気付いた。その一つは、カタリイナの出自―「皆吉氏」にかんするものである。その根拠となった史料は「薩藩旧記雑録後編」の中にあり、藩史局編者が2代藩主光久公の母・桂安とその母・カタリイナ永俊について述べた註記見解である。これまでカタリイナ永俊の基本史料とされてきた。(註2)

 「光久公御母堂桂安夫人島津備前守忠清ニテ、其御母肥後士皆吉久右衛門續能ニテ法名永春(永俊)ト云。始肥後宇都(=宇土)城主小西摂津守行長ニテ、女一人、行長滅ヒタル後、島津忠清小西御預ニテラレシニラレ、桂安夫人、慶長十四年鹿府、忠清死後堅野今郷田氏辺ラレ、堅野御祖母様トモ、又永俊尼トモ為申由也。行長メル女子喜入摂津守忠政トナレリ」。

 ここに「御母(カタリイナ)は肥後の士・皆吉久右衛門續能の女(である)」とあることから、カタリイナ研究者の多くが永俊は「肥後の士・皆吉氏」の出身であるとしてきた。ところが、筆者は有馬晴信の調査をしていたとき、有馬(高来)日野江城の城主・有馬氏の家臣として皆吉氏が登場する史料を目にしたことがある。有馬氏の史書『藤原有馬世譜』の「不受公」(有馬氏第10代晴純)の項である。

 「(不受)公生質温潤にして文武の御才あらせられ……御領地大に廣まれり。当国佐賀の城主御墓野出羽守長能も此頃より当家に附属す。御墓野が先祖は年久しく肥前国の住人にて、貞和観応の頃、又次郎重能高来東郷御墓野村、同国佐賀郡西泉の地頭職として古き文書等、其家に伝来す。長能が子・續能が時、皆吉と改め、其子・皆吉権左衛門、東氏を冒し、後、有馬氏を賜りて因幡守と称す。(註4)

 皆吉氏は元「御墓野」氏を称し、南北朝時代貞和・観応(1345~52)の頃、佐賀郡の地頭職であった。「出羽守長能」の頃、有馬氏第10代晴純が佐賀に進出し、有馬家に附属した。有馬家のもう一つの史書『國乗遺聞』には「晴純公麾下の士」8人の城主のうちの一人として「佐賀城主・御墓野出羽守(長能)」が記されている。ところが、その子「久右衛門續能」の時代、龍造寺氏が台頭して転機が訪れる。『國乗遺聞・巻之三』に次のようにある。

 「佐賀城主・御墓野出羽守長能、此(晴純の)御代、初て麾下に属し、士将の魁首に列す。子・皆吉久右衛門續能、幼穉(ようち)の時、当城を龍造寺隆信に抜かれ、後、大江に於て食邑を賜ふ…(註5)

 龍造寺隆信によって佐賀を追われた「續能」は、有馬氏の居城・日野江城の近くの大江に移ることになるが、その際、姓を「皆吉」に改めたらしい。このあと、有馬氏の「士将」として活躍するこの人物こそ、カタリイナ永俊の父「皆吉久右衛門續能」であった。(つづく)

【皆吉氏系図】


註1】…キリシタン大名・有馬晴信(1563ー1612)の没後400年、ルイス・デ・アルメイダ師の来島450年等を記念する取り組みであった。島原新聞に関連記事を連載し、2013年2月、海鳥社(福岡市)から著書『ドン・ジョアン有馬晴信』出版の運びとなった。

註2】…『鹿児島県史料旧記雑録後編・五』(1985年鹿児島県歴史資料センター黎明館発行)所載、883頁。江戸家老伊勢兵部少輔貞昌の「極月七日」付け「種子島左近大夫様人々宛」書簡。ただし同黎明館がこの書状の年号について「寛永十二年乙亥」と(仮定)したのは、『種子島氏底本』では「寛永九年」となっており、再考を要す。本稿で後述する。

註3】…茂野幽考著『日南切支丹史』(1951年刊)181-182頁。『種子島家譜』「寛永15年2月16日」の条。

註4】…林銑吉編『島原半島史・上巻』(1954年・長崎県南高来郡市教育会発行)457頁。

註5】…『國乗遺聞』は有馬家第21代譽純の時代、寛政9年(1797)に編纂に着手され、文化8年(1811)に完成した有馬氏家系継承の記録書10巻。

2022年11月7日月曜日

カタリイナ永俊①

 ■1624年度イエズス会日本年報

 慶長18年臘月23日(西暦1624年2月1日)徳川幕府が発布したキリスト教禁止令「排吉利支丹文」は、元和年間に入って徹底され、同5年(1619)京都の鴨川六条河原で52人が火炙り刑。同8年(1622)には長崎の西坂刑場で55人が火炙りと斬首刑に処せられ、翌元和9年(1623)には江戸品川の札の辻で50人が同じく火刑によって殺された。それは将軍秀忠の大名に対する暗黙の指令であり、これを受けて全国各地でキリシタンの捕縛・処刑が相次いだ。キリシタン信者が公然とその信仰を表白できない時代であった。

 ところが薩摩国鹿児島藩に、それでもキリシタン信仰を敢然と公言して憚らない女性がいた。カタリイナ永俊(1575-1649)である。彼女について多くを語っていないイエズス会文書が、「1624年度日本年報」で、珍しくその状況を詳しく伝えている。家老職であったカタリイナの娘婿(喜入忠政)が度々、使いの者を遣ってカタリイナの信仰を糺してきたので、煩わしく思ったカタリイナは自ら家老たちの前に出向き、「自分はキリシタンである。どんな理由があろうとキリストに対する信仰を決して棄てようとは思わない。」―そのように断言したというのだ。以下に原文を記す。

 「薩摩でキリシタンの中心になっていたのが、その国の君主(島津家久)の姑であるカタリイナという名の女性で、彼女は熱心に説いて回って聖なる信仰を弘めていた。彼女は挑発を受けたことが二度あった。一度目は仏僧たちからで、彼らは様々な迷信や祈祷の札を持ち出して、彼らの戒律に彼女を引き込もうとした。二度目は、江戸で迫害が起こっていた時期に、彼女がキリシタンであるかを知るために、彼女の娘婿によって遣わされた者たちによってである。最初の時は簡単にそれに打ち勝って、彼らを断固として追い返した。二度目には方々から多くの使者に押し掛けられるのが煩わしくて、彼女の娘婿がこの国の高い地位にある多くの者たちと一緒にいることを確かめると、彼を訪ねに出向いて、皆のいる前で臆することなく、自分はキリシタンであり、どのような理由があろうともキリストに対する信仰を決して棄てようとは思わないと言った。すると異教徒である娘婿もそこに居合わせた他のすべての者たちも、女性にそのような大きな勇気のあることに驚嘆し、それ以上彼女を煩わせることは止めてしまった。(註1)

 レオン・パジェスは『日本切支丹宗門史』の「1624年」の項で、「薩摩では、大名の義母カタリイナはあらゆる懇願に耳をかさなかった。聟(むこ=娘婿)は彼女の思うままに任せていた。」と、「日本年報」を要約して記している。ここに出てくる「聟」「娘婿」は、カタリイナの連れ子・妙身(実は前夫・小西行長との間の娘)の夫・喜入忠政(鹿籠の領主=島津藩大家老)である。カタリイナにはもう一人「娘婿」がいる。島津忠清との間に生まれた娘・桂安の夫・島津家久(鹿児島藩初代藩主)その人である。藩主家久から言えばカタリイナは夫人の母(姑)になる。宣教師がこの年報で言うカタリイナを挑発した「娘婿」は、文意から判断して家老職の喜入忠政であるが、彼にその旨を指示したのはもう一人の「娘婿」すなわち藩主・島津家久であったようだ。

 家老はもとより藩主もカタリイナのキリシタン信仰を「思うままに任せ」ざるをえなかったという、その女性(1624年当時46歳)は、たしかに普通の女性ではない。地位・立場からして大名に匹敵するような系譜的背景を持った人物であった、と見なければならない。(つづく)

【写真】崇伝によって起草された「排吉利支丹文」冒頭部分(毛利家文庫)

 【註1】…結城了悟氏は著書『鹿児島のキリシタン』(1975年初版、1987年改訂版)で、イエズス会が鹿児島のカタリイナについて記録したのはただ二つだけであるとして、「1616年、マテウス・デ・コウロスによって書かれた年報書簡」(長崎・1617年2月22日発信、Jap-Sin 58. 437-38)とともに「1624年の年報書簡」を紹介している。後者の「1624年の年報書簡」は、筆者が今回掲げた「1625年3月28日付、マカオ発信、ジョアン・R・ジランのイエズス会総長宛、1624年度日本年報」とは異なる別文「ジョアン・R・ジラム、マカオ・1625年3月18日発信、Jap-Sin 58. 437-38. 344-344v;460v.」である。要約文となっている。


2022年6月5日日曜日

きりしたん作法で解く島原の乱⑤

 ■最期の日「1638年4月11日」

 キリスト教禁止令が敷かれた徳川幕府政権下で、「転び」から「立上り」、キリスト教徒に戻った天草四郎らキリシタンたちがそのまま生き続けることはできない。それゆえ、彼らがすべての償いの行為をキリシタン作法によって成し終えたその日―すなわち1638年4月11日(復活祭)は、同時にこの世との決別の日・死ぬ日でもあった。

 司祭・四郎が「(和暦)2月朔日」付で通達した『四郎法度書』(と称される文書)の中で、「現世には一旦の事と申し候中に、此城内の人数(人々)は弥(いよいよ)みじかき様に存じ候…」と言ったのは、それから27日後に訪れる〃死の日〃を想定してのことであった。ーと言うより、「立上り」の行動をする当初から彼らは死を覚悟していた(註1)。

攻撃ではなく防衛―「ふせぎ申したる分に候」

 定められた「死の日=復活祭」以前の段階で、たとえば寛永14年12月10日、同12月20日、寛永15年1月1日に幕府軍から攻撃を仕掛けられたとき、彼らが激しく抵抗したのは何故か。それは、「立上り」のためのキリシタンの作法「ゆるしの秘蹟」を終えていなかったからに他ならない。その場合の抵抗は防衛であって攻撃ではない。矢文の言葉を借りて言えば、「島原天草両所の儀、(幕府軍が)御取懸り候に付、ふせぎ申したる分に候」、「一度として此方より仕掛け申したる儀、御座なく候。天草島原両所とも、御軍勢をもって御踏み殺し候の故、至極迷惑(し)防ぎ申したる分に候」であった。

 加えて彼らは「此宗旨に敵をなす輩は、身命を捨てふせぎ候はで叶わず」(=神のみ旨に敵対し攻撃してくる者に対しては、命を捨てて防衛しなければならない)とも言っている(註2)。「ふせぐ」というのは「守る」という行為である。キリスト教徒はその行為に「身命を捨てる」、つまり「命をかけて守る」。これはキリスト・イエスが「人がその友のために自分の命をすてること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章13節)と説く隣人愛に依拠するものであった(註3)。四郎が償いの行為として「おらしよ(祈り)、ぜじゅん(断食)、じしぴりいな(鞭打ち行)」に加え「敵をふせぐ手立」としての「武具の嗜(たしなみ)に念を入れること」を指示したのは、意外に思うかもしれないが、聖書の教えに基づくものであった。

 この点に関して、中世カトリック神学が殉教(マルチル)の三要素の一つに無抵抗であることを挙げたのは、いかなる聖書的根拠に基づくものなのか、究明されなければならない(註4)。なぜなら、原城に集った3万7千余人がキリスト教の宗教的行為によって餓死または幕府軍によって殺された―殉教者であった―にもかかわらず、カトリックが定めるマルチルの定義から外れるとして、これを殉教者として認めなかった経緯があるからである。

「こころよく」死すべし

 実際、彼らは「立上り」のキリシタン作法を成し終えた後、「原城の門を開け」て幕府軍を入れ、死の旅路に就いた(註5)。弱者である老人や子供、そして友のため死力を尽くしたことであり、そうして「死ぬ」ことはみこころであった。敢えて言えば、立ち帰ったキリシタンとして如何にキリシタンらしく死ぬかが問われたのであり、この点に関して司祭・四郎は「快く(こころよく)勝負を決すべし」と言っている(註6)。「こころよく」とは、「いやな顔をしないで、うれしく、楽しく」という意味である。

 信仰の程度は人により異なるので、このように〃喜んで〃死ぬことができたかどうか。幕府軍側の目撃者の一人・松平信綱が、「剰(あまつさ)へ童女に至るまで死を喜び斬罪を蒙る。是れ平生人心の致す所に非ず。彼の宗門浸々たる所以(ゆえん)なり」と記録したのは事実である(註7)。他にも「こころよく」死んだ状況を思わせる記録がある。

 ・「丸裸になり、持ち道具を捨て〃首を切られ候へ〃と申し候」(『佐野弥七左衛門覚書』)/「敵(キリシタン)草臥、大方働く事なし」(『嶋原一揆松倉記』)/「皆やみやみとぞ討たれける。…或はむざんに討たれて死するもあり。」(『島原記』)。「やみやみ」とは「わけなく、むざむざ、みすみす」の意味。「むざん」とは「無慙」、「僧が罪を犯しながら恥じるところのないこと」を指す(古語辞典)。

 もとより彼らは、償いの行(ぎょう)として断食をしていたし、最後には食糧も尽き、体力は限界状況に達していた。ほとんどが無抵抗のまま「やみやみと」「むざんに討たれ」殺されたのが事実であった。

幕府の責任回避、および「味方討ち」隠蔽のための一揆説

 それでは何故、徳川幕府はこれを一揆とし、幕府軍諸藩は戦いの構図でこれを記録したのだろうか。その答えは、そうしなければならない訳が幕府側にあったからである。理由は二つある。ひとつは、キリスト教禁止令を発布してキリスト教信教の自由を認めなかった幕府側のこの事件に対する責任を回避し、松倉氏に転嫁するためであった。すなわち、この事件が「転び」の「立上り(再改宗)」であるとするなら、根本の原因はキリシタンを強制改宗させて仏教徒にした幕府の禁教令にあったはずで、幕府はこの責任を負わなければならない立場にあった。そこで幕府がこれを回避・転嫁するため、事件直後に打ち出したのが松倉悪政による一揆説であった。それはまた、動員された諸藩側にとっても好都合であった。手柄功名の材料にすることができたからである。

 他の一つの理由は、味方討ち(同士討ち)による不名誉な犠牲を隠蔽するためである。これは手柄功名にならないばかりか軍令違反の失態であり、侍として恥ずべきこと、不名誉なこと、さらには処分・改易の材料ともなるべきものであったため、邦文史料から意図的に外された状況がある。ただ、第三者的立場にあった平戸オランダ商館長クーケバッケルがその事実をありのまま記録しているので、ここに紹介する。

 ・【寛永14年12月20日、寛永15年1月1日の幕府軍攻撃のとき】…我等が船を出す迄に合戦二度ありつるが、味方の士討死の数5708人なり。味方の同士討にて死人疵人数多(あまた)あり(註8)。/【寛永15年2月27-28日総攻撃のとき】…前方の鍋島公と細川公の前後の争いあり。…依て大いに混雑して味方の人々同士討にて死す(註9)。

 この事件に動員された諸藩の邦文史料の中にも、注意深く読んでいくと、かすかに同士討ち・仲間討ちの記事を見つけることが出来る。『水野家島原記』に「(正月朔日の城攻の時)諸勢塀下へかかり候時、後勢より鉄砲放ち候て、手負死人過半、味方討ちのよし」と。また、有馬藩の史書『國乗遺聞・巻之八』-「兵戦第十八」に、「(寛永15年2月27日惣乗のとき)彼の者(寺沢の使番)申しけるは…後口より鉄砲討かくべしと申さる」とあるが、これも希釈された表現の味方討ちの記録である。

おわりに

 繰り返すが最期の日、キリシタンたちのほとんどが戦いの道具を捨て、動くことなく「草臥」していた。中には焼け落ちた火の中に入り、死んでいく女たちもいた(註10)。彼らは「転び」の罪を悔い、神にわびて償いをなし、もとより「死」を覚悟して家を焼き、故郷を捨てて原城に出てきた人々であった。そこには女・老人・子供たちもいた。壮健なる侍たちが鉄砲で撃ち、刀で首を切り殺すような相手ではなかったのだ。戦いになる状況は何もなかった。あったのは幕府軍諸藩が武功を争う激戦だけであった。

 島原の乱一揆説は、根本的に見直されなければならない。この事件は一揆などではない。転びキリシタンたちが再改宗して元のキリシタンに戻る、「きりしたんの作法」に基づく純粋な信仰行為であり、宗教行為であった。(おわり)

【写真】…有明海海上から見る原城風景(昭和初期)

註1】…永積洋子著『平戸オランダ商館の日記・第四輯』(1970・岩波書店)「1637年12月17日」付の項に、「有馬領の住人、或いは農民の大部分が…叛乱を起こし、…『大勢が長い間かかって死ぬよりは、一度に死のう』と決議された。」とある(同書40頁)。

註2】…「…右の仕合せ、きりしたんの作法に候。御不審可思召候得共、此宗旨に敵をなす輩ハ、身命を捨ふせぎ候ハて不叶」(城中より御陣中への矢文)。古語「不叶(かなはず)」はこの場合、「~しなくてはならない」の意味である(古語辞典)。

註3】…「Greater love hath no man than this, that a man lay down his life for his friends.」 ST.JOHN15-13 

註4】…姉崎正治著『切支丹宗門の迫害と潜伏』(1925・同文社刊)掲載の『マルチリヨの心得』に、マルチル(殉教)の説明として、①死ぬこと、②成敗を辞退せず心能く(こころよく=快く)堪忍致して受くること、③死罪の題目がC(キリシタン)なりとて成敗されること、の三点を挙げている。

註5】…「…叶はじとや思ひけん、門を開き…」(『吉利支丹物語』)、「四郎大夫…〃一向に門を開き、突き出て勝負を快く決し候様に致すべし〃と申しける」(『寛永平塞録』)。

註6】…細川藩記録『寛永平塞録』に、「四郎大夫…籠城百日に及び候はば、城内の糧乏しき事眼前にあり。一向に門を開き、突き出て勝負を快く決し候様に致すべしと申しける。」とある。

註7】…松平忠綱筆『嶋原天草日記』「…賊徒の将四郎一類、悉く刀殺せらる。その外、生捕斬罪せしむ。剰へ童女の輩に至り死を喜び斬罪を蒙る。是、平生人心の致す所に非ず。彼の宗門駸駸たる所以なり」(日屋根安定編著『吉利支丹文庫第三輯・嶋原天草日記、他四編』1926年刊、53頁)。1998年10月18日、原城のある南有馬町(現・南島原市)で開催されたシンポジウム『原城発掘』で結城了悟氏(元長崎26聖人記念館館長)が最初にこれを取り上げ発表した。

註8】…これは、平戸オランダ商館長ニコラス・クーケバッケルの日記から19世紀はじめ、オランダ商館長ヘンドリック・ヅーフが島原の乱の関係記事を抽出編集して出島乙名・末次独笑(忠介)に与えた原文を、当時のオランダ通詞・吉雄如淵が翻訳した『天馬異聞』の記事である。この部分の原文は『平戸オランダ商館長日記』(東大史料編纂所・昭和52年)の〔1638年3月13日〕付記事にある。

註9】…同じく『天馬異聞』に依る。原文は『平戸オランダ商館長日記』の〔1638年6月〕付、〔平戸オランダ商館長ニコラス・クーケバッケル書翰〕(昭和41年吉川弘文館刊「長崎縣史史料編第三」の〔1638年11月19日付、平戸発バタビアのインド総督におくった手紙〕にある。

註10】…細川家熊本藩史料ー本丸にて細川勢が目撃したキリシタンたちの自害について「小袖を手にかけ、焼けている燠(おき)を上へ押し上げ、その中に入って自害し、また、ある者は子供をその中に押し込み、自分は上へ上がって死ぬる者も大勢いた。忠利は〃中々奇特なる下々の死、言語を絶し候〃と、かれらの壮絶な死に様に賞賛の声を上げている(山本博文著『江戸城の宮廷政治』(1993・読売新聞社)257-258頁)。史料名「三月朔日忠利披露状」。鍋島家佐賀藩史料『元茂公御年譜七』にも「女・童部(わらべ)は手に手を取り組み、悉く猛火の中へ飛入々々焦れ死す。其臭気四方に薫じて人皆鼻を掩ふばかり也」とある。

2022年5月16日月曜日

きりしたん作法で解く島原の乱④

 ■四郎、復活祭ミサ―聖体の秘蹟で幕…

 翌4月11日(和暦2月27日)は悲しみ節(四旬節)「あがり」の日曜日、復活祭である(註1)。四郎ら「立上り」キリシタンたちはこの日、復活祭ミサを催した。それは「転び」の罪の償いをしてきた四旬節に連続するものであり、また、すべてのカットリック教界における「掟(おきて)」の一つでもあった。当時、公会議または教皇によって定められた「まだめんと(掟)」があり、このうちとくに五ヶ条は全世界の信者に義務づけられていた。その第三項目に「ぱすくは(復活祭)にえうかりすちあのさからめんと(聖体の秘蹟)を授かり奉るべし」とある(註2)。一同にとっては、すでに「立上り」の務めを終え、晴れて元のキリシタンに戻った最初で最期の記念的ミサであった。

 幕府側の諸記録はこの日―西暦4月11日=和暦2月27日―、城内に異常な動きがあったことを伝えている。キリシタンたちが持ち場を離れていたことである(註3)。それは、彼らキリシタンたちが復活祭のミサにあずかるため、本丸と二の丸の間にある蓮池近くの広い窪地に集まったためであった。

 カトリックのミサは、水(葡萄酒)とパンをキリストの血と肉に変え、それを拝領する儀式であるが、ここで思い出されるのが四郎が所持していた「陣中旗」である。二人の天使が中央の聖杯(カリスCalix)に向かって手を合わせている図柄に、ポルトガル語で「いとも尊きご聖体の秘蹟は貴まれ給え」の文字が描かれているもので、聖杯の上には十字入りのパン(聖餅)がある。これが司祭の祈りによってキリストの体に変化するパン、すなわち「ご聖体」である。参加者はこれを拝領し、秘蹟の恵みにあずかるとされている。

 日本のキリシタン時代、聖体となるパンをいかなる材料で、どのようにして拵えたのか、詳細は分からない。おそらくは米や麦、粟を粉に挽き、水を加えて練り合わせたものを千切り、平たく円形に伸ばして調達したであろう。問題は、食糧がほぼ底をついていたことであり…、あるいは最期のこの日のミサのために残しておいた少量の麦または米を臼(うす)で搗き、用意したかもしれないが、それでも量として十分ではなかったと思われる。目の前に広がる有明海の磯に出て、海草を拾い、代用したとも考えられる。その証拠として、現場に臼があり、また海辺で海草を拾ったことが目撃され、幕府軍側の史料に記録されていることを上げておきたい(註4)。時は西暦1638年4月11日(日曜日)、午前から昼過ぎにかけてのことであった。 (つづく)

【写真=(左)嶋原陣絵図にある臼、(右)島原の乱「陣中旗」】

 【註1】…「あがり」は、悲しみ節の入りから46日目。長崎のかくれキリシタンたちはこの日、暗くなってから集まり、「御礼のオラショ」「クレドのオラショ」を上げ、翌日(復活祭)の夜明け前に帰る習わしがあった。片岡弥吉著『かくれキリシタン』(1997NHKブックス56)184頁。

 【註2】…『どちりいな・きりしたん』に、次の「五ヶ条」が示されている。「第一、どみんご・べあと日にみいさを拝み奉るべし。第二、せめて年中に一度、こんひさんを申べし。第三、ぱすくは(復活祭)にえうかりすちあのさからめんと(聖体の秘蹟)を授かり奉るべし。第四、さんた・ゑけれじやより授け給ふ時、ぜじゅんを致し、せすた・さばどに肉食すべからず。第五、ぢずもす(十分の一税)・ぴりみしあす(初穂)を捧ぐべし。」

 【註3】…「廿七日、午の刻、鍋島殿先手、何れも二の郭西枡形へ向い、竹束を附け寄せける…城内一円物音なく靜かなるゆえ、鍋島家の先手の組頭鍋島安芸、城近く進み寄りて狭間より伺いけるに一揆壱人も見えざる故…」(細川熊本藩史料『綿考輯録』、2003年福田八郎編版189頁)。

 【註4】…臼の描写は複数の絵図で確認される。写真は毛利家萩藩の使者が記録した絵図。海草採りについては、たとえば毛利家文庫史料『原権左衛門・寛永討録』に次のようにある。「廿七日の朝、…城内の者は…それより油断仕り、こやごやへ引き取り候由候。其の後、海手へ海草ども取りに罷り出で候者も有之候由候。」


2022年5月14日土曜日

きりしたん作法で解く島原の乱③

 ■ゆるしの秘蹟―その③さしちはさん(所作による償い)

 ゆるしの秘蹟は、犯した罪を悔い改め、それらを司祭に告白したあと、最後に「所作をもって科送りをすること」すなわち行為による償い(さしちはさん)が求められる。これについて司祭・天草四郎が原城に籠もったキリシタンたちに指示したことは、「おらしよ(祈り)、ぜじゅん(断食)、じしぴりいな(鞭打ち)」等の善行に加えて「城の普請」、そして「えれじよ(敵)を防ぐ手立て」としての「成程(なるほど=できるかぎりの)武具の嗜(たしなみ=練習・手入れ)に念を入れる事」であった(註1)

 これらのうち「おらしよ(祈り)・ぜじゅん(断食)・じしぴりいな(鞭打ち)」は、長崎の外海(そとめ)系キリシタンたちが毎年「悲しみ節(四旬節、Quaresma)」におこなうものであることから、原城のキリシタンたちは1638年(寛永15)の四旬節にあわせて「ゆるしの秘蹟」を進行していたことが判明するであろう。

 この悲しみ節(四旬節)の期間は40日―日曜日を含めると46日―あり、その間、肉食を絶ち、食事を省き、また「コンチリサン」の祈りを一定回数唱え、一週間ごと組親(帳方)の家に集まって初穂(供物)を上げ、「御礼のおらしよ」(アベ・マリア)をささげる」という一連の「御後悔(ごこうかい)」をするのが長崎のかくれキリシタンたちの習わしであった(註2)。天草四郎の達書『四郎法度書』の第三項目に、「昼夜おこたりなく前々よりの御後悔(ごこうかい)尤、日々の御礼のおらしよの御祈念専らに存ずべく候」(昼夜怠けることなく以前からの後悔の祈り・コンチリサンと、アベ・マリアの祈りを捧げるべし)とあるのは、これを裏付けるものである(註3)。

原城で四旬節を過ごしたキリシタンたち

 そうであるなら、ここで新たな事実が浮かび上がってくる。すなわち、彼らは寛永15年(1638)のキリシタン暦のうち「悲しみ節(四旬節)」に沿ってその務めをなし、最期に「復活祭(イースター)」の一日を迎える、という明確な目標に向かって行動していたことである。これもまた『四郎法度書』第5項目に「今程(いまほど)くわれすま(四旬節)の内」とあるので、彼らは実際、キリシタン暦の四旬節とゆるしの秘蹟の「さしちはさん」を重ね、その償いの日々を過ごしていことであった。

 これら島原の乱事件の動きを、キリシタンの作法である「ゆるしの秘蹟」およびキリシタン暦の「四旬節」とを重ねて表にしてみると、以下のようになる。


 1638年(寛永15)の四旬節は2月24日(寛永15年1月11日)に始まり、途中、中日の「お告げの祝日」を経て4月4日(和暦2月20日)の「枝の主日(「棕櫚の日曜日」とも言う)」に至る。そしてこの後、最後の週の「聖週間」に入る。枝の主日にはミサを執り行い、一同「デイウス」の大音声を上げて祈ったらしい。細川熊本藩の史料『寛永平塞録』の記事に「昨日(和暦2月21日)より城内一同に大音にデイウスと宗門の唱えをなすこと雷のごとし」とある(註4)。この頃、食糧はすでに尽き果て餓死者が続出していたが、同日、「夜討(やうち)」を決行した。それは「子供・老人」の食料を確保して食わせるためであり、「友のために命を捨てる」死力を尽くした隣人愛であった、と言うことができるであろう(註5)。
 こうして、真冬の原城を舞台にした彼ら「立上りキリシタン」の「さしちはさん」は、1638年の「くわれすま(悲しみ節)」46日間と併せて進行し、初春の4月10日(和暦2月26日)をもって満了した。当初、3万7千人いた人々は、途中1万人ほどが餓死し、2万7千人ほどになっていた。 (つづく)


 【註1】…『四郎法度書』第二項、「おらしよ・ぜじゅん・じしぴりいな等の善行のみに限申間敷候、城内そこそこの普請、扨又ゑれじよふせく手立、成程武具之嗜可被入御念事も皆御奉公に可成事」

 【註2】…片岡弥吉著『かくれキリシタン』(1997NHKブックス56)181頁。

 【註3】…「御礼のおらしよ」について、筆者は当初「さるべ・れじいな」を設定していた。祈りの文言に「御身に御礼をなし奉る」と二回あるからである(本ブログ2016年1月3日付、「四郎法度書」に見る「転び」の償い―島原の乱を解く⑥)。ところが片岡弥吉氏は前掲書で、それは「ガラサ(あべ・まりあ)」であるとしている(同書183頁、134頁)。これを裏付けるものとして五島・外海のかくれキリシタンのオラショに題目「御礼のおらしよ」で「がらさ(あべ・まりあ)」がある。「あべ・まりあ」の祈りは「がらさみちみちたまふまりあに御礼をなし奉る…」ではじまる(『どちりいな・きりしたん』)。以上により、「御礼のおらしよ」は「あべ・まりあ」であることが判明する。

 【註4】…『嶋原記』にも同様の記事がある。「二月廿一日夜討之事…左候て一両日前より城内に数千のもの共でいうすでいうすと同音に高く宗門のとなへ夜々申候」。

 【註5】…『寛永平塞録』によると夜討の記事が二回登場する。(二月)廿一日の軍議およびその実施、同二十六日の評議である。このうち二回目夜討評議のくだりに、「寄せ手の食物奪い取り、城内の老人子供へ今壱度食わせ、その上にて何れも相果つべく候。然れば明廿七日丑の中刻を一生の最期に致すべし、と申渡しける…」とある。夜討は、幕府軍の兵糧攻めに対し同朋の弱者「子供老人」を守るための措置―「友のために(戦い)死ぬ隣人愛」の行動であったと考えられる。


2022年5月7日土曜日

きりしたん作法で解く島原の乱②

 ■ゆるしの秘蹟―その②こんひさん(言葉による告白、懺悔)

 「転び」やその他のモルタル罪科は、司祭に罪を告白し、司祭から指示される償い、もしくは自発的な償いを行為によって果たすことで「ゆるし」に至るとされる。

 原城に籠もった人々は、寿庵の廻文にあったように「きりしたんに成り申」すことを決意した者たちであった。その「立上り」の決意、信仰の強弱は人によって差があり、籠城の過程で落ちた人たちもあったものの、仏教信者や神道信者などが混じっていたという指摘は当たらない。強制された者もいたにはいたが、それを本人が受け入れたという点では、「立上り」キリシタンであった。

 ところで、天草四郎が司祭として、原城に集った37千余人もの「こんひさん」をどのように聞き、請けたのだろうか。原則、密室で秘密裡に進行するこの秘蹟は、他人にもらすことがゆるされないため、四郎自身、本丸のどこか地下室にいて、この秘蹟を執り行なったと考えられる(註1)。これを裏付ける史料は少ないが、以下にいくつか参考となるものを上げてみる。いずれも城内からの落人の証言である。

 「(四郎は)本丸に罷り在り候。此の度、取り詰め候て以後、一度二度、二ノ丸まで出で申し候」(註2)

 「籠り候てより以後、四郎は罷り出でず候。名代島原に之れ有り候絵書右衛門作と、嶋原浪人忠右衛門と申す者両人(に)四郎(の)印持たせ廻り候」(註3)

 「四郎が親甚兵衛一人具足をつけ、馬に乗り…城中に下知申し付け候…四郎は本丸の内に寺(教会)を立て、天守に居り、すすめをなし申し候由…」(註4)

 四郎は城内のキリシタンたちの前にその姿を現すことは、ほとんどなかったらしい。本丸の内にこしらえられた「寺(教会)」にいて「すすめ」をなしていたという、その「すすめ」とは司祭としての「法儀のすすめ」、「信仰のすすめ」、または「ミサ(聖祭)」であった。『オランダ商館日記』(永積洋子訳)に「肥後生まれの16、7歳の若者が日に2回、ミサを行なっていた」とある。

 実際、37千人の「告白」を直接聞くことは物理的に困難であったし、各村ごと、または信人会(コンフラリア)の組ごと代表者をたて、何らかの手続きがおこなわれたものと思われる。その進行の様子は、寛永15年2月1日(西暦1638年3月16日)付けで司祭・天草四郎から出された達書(たっしがき)「四郎法度書」の条文により、ある程度確認することができる。 

「一、今度此の城内に御籠もり候各(おのおの)、誠に此の中、形の如く罪果数をつくし背き奉り候事に候へば、後生のたすかり不定の身に罷り成り候処に各別の御慈悲を以て此の城内の御人数に召し抱えられ候事、如何ほどの御恩と思し召し候哉」(一、ここ原城に集った者たちは、いつも常習的に罪科をくり返し、天主を背信して来たので、死後、ハライソに行く保証がなくなってしまった。ところが、神の慈しみによって〃ゆるしの秘蹟〃の場であるこの原城に導かれたのだ。これがどれほどの神の恩恵であることか、分かっているのだろうか)。

 「四郎法度書」の第一項に出てくる「形の如く罪科数をつくし(天主に)背き奉り候」というのは、「絵踏み」をくり返し、不信仰を重ねたキリシタンたちの「こんひさん(告白)」を聞き、それを踏まえた上でのくだりであると考えられる。

この後に続く条項には、司祭四郎による「ゆるしの秘蹟」の「さしちはさん」(行為による償い)に関する示達およびその指導が綴られている。(つづく)

【写真…「四郎法度書」第一項】

【註1】…原城本丸に「四郎の家」なるものが細川熊本藩の史料『綿考輯録』掲載の絵図に描かれている。これとは別に、本丸には地下室が存在したようで、大雨のたびに陥没したことがある。2021年にも大規模陥没があった。1963年豪雨時の陥没調査によると、「内部は段状になっており、深いところでは(高さ)4,3㍍あった」という。

【写真=原城本丸にあった四郎家(『綿考輯録』掲載)】

【註2】…鶴田倉蔵編『原史料で綴る天草島原の乱』(1994、本渡市)603頁「寛永14年12月25日付落人の証言」

【註3】…前掲史料608頁「寛永14年12月25日付、久留米藩が捕らえた落人の証言」

【註4】…前掲史料621頁「細川立允の家老志方半兵衛の12月29日付記録」