2019年2月25日月曜日

キリシタン墓碑は変遷した―編年史試論―⑥

■六、伏碑型ポルトガル様式キリシタン墓碑の興隆そして衰退
 以上、ポルトガル様式伏碑墓碑が出現する理由とその経緯、そして、確認のためのいくつかの裏付け史料を見てきた。
 墓石を伏せ、ときには美しい花十字の紋様が彫り込まれたこの種のキリシタン墓碑は、日本のそれまでの歴史になかったものであり、日本人の目に印象深く映ったと思われる。1604年、コングレガチオが創設されたドン・ジョアン有馬晴信の領地・肥前国高来(たかく=島原半島)に出現して以来、急激に増加し、こんにち遺されたものだけでも島原半島内に約140基、他地域(熊本県・大分県・京都大坂)に約30基、計170基ほどが知られている。10年後の1614年(慶長18年臘月)禁教令発布によって急減するものの、その間わずかに10数年であったことからすると、この文化がいかに爆発的に浸透したかがわかる。
 その伝播は、九州では有馬国(高来)の周辺地―肥前国(長崎県内)と肥後国(熊本県)、そして豊後国(大分県)に限られ、それから遠く京都・大坂に飛んでいるのも特徴的である。
 このうち大分県にいくらか波及したのは、コングレガチオ信心会が豊後国の南郡(なんぐん=大分県南部の直入郡、大野郡、南海部郡の一帯)に存在したことによるものであろう。島原半島のそれよりすこし遅れて創設されたが、時はすでに禁教時代に差し掛かっていた(註1)。
 特異的に遠方の京都に波及したのは、紀年銘墓碑の統計によると島原に遅れること4年、1608年のことであった。そのような現象は、肥前国有馬と都との間に直線的なつながりが存在したことに由来すると考えられるが、有馬の国主ドン・ジョアン有馬晴信の後室として1599年、京都の公卿中山家から夫人(中山親綱の娘・菊亭季持未亡人、洗礼名ジュスタ)を迎えたことと、何らかの因果関係があるものと思われる。
 伏碑型ポルトガル様式キリシタン墓碑は統計によると、1619年(元和5)銘の豊後国宇目の「るいさ」墓碑を最後に姿を消し、次の「かくれ型」墓碑に移行する。(つづく)
伏碑型ポルトガル様式キリシタン墓碑の推移図


 ※1…豊後国の「コングレガチオ」信心会について、イエズス会は「ロレンゾ・デレ・ポッツェ訳、イエズス会総長宛、1615,16年度年報」でふれている。「彼らは秘蹟以上にキリシタンたちの心を強める手段を見出した。それは適当な時期を選んで行われる信心会(コングレガチオ)であった。そこでは死を賭しても信仰を守るという不動の堅い信念を告白すること以外には何一つ取り扱われなかった。この信心の組は、たいてい〃至聖なるマリアとその僕〃という名称のもとに開かれた。」(1996年・同朋社出版『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅱ期第2巻、218頁)。この中に登場する「身分の高い婦人」、「加賀山ディエゴ隼人の姉妹のルイザ」が、本稿で紹介する「豊後国宇目の〃るいさ〃墓碑」の被葬者である。本ブログ「欧文史料で読み解く宇目の〃るいさ〃」(2018年6月5~22日、13回連載)参照。


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