2019年2月23日土曜日

キリシタン墓碑は変遷した―編年史試論―④

■四、ヴァリニャーノ離日後、「適応主義」方針が見直される
 塔形立碑キリシタン墓碑が、日本在来の「習わし」である仏塔型式を踏襲したもの―イエズス会の適応主義に基づくもの―であったとするなら、慶長期後半1604年から伏碑型キリシタン墓碑が肥前国島原を中心に出現する現象は、ヴァリニャーノによって決定された「適応主義」が何らかの理由で見直され、本来のキリスト教布教方針に転換されたとみなければならない。
 この推測・仮定のもとに、イエズス会の慶長期前後の動向変化を各種点検検証してみると、「適応主義を見直した」という直截的表現の文書は見いだせないものの、従前の方針から反れたいくつかの現象を確認することができる。その最たるものは、ヴァリニャーノによって打ち出された日本人司祭の養成が中止され、セミナリヨを卒業してノヴィシャドで修練・修行を続けていた複数の神学生がやむなくマカオに送られた事実である。
 これらの方針転換をめぐってイエズス会内部でも対立があったようで、なかでも日本人の資質を評価し、日本人イルマンを司祭職にするため尽力していたメスキータ神父などは、「この国の人がそれほど信用できず才能のない者のように取り扱うことは、この国を侮辱することだ…何故、適当な人々を叙階(じょかい=昇格任命)しないのか」とイエズス会総長に訴えている(註1)。
 天正遣欧少年使節のひとり千々石ミゲルや、それまでカテキズモの日本語編纂などに尽くした不干斎ファビアンが去ったのも、この前後であった。
 カブラルが免職されたあと来日した宣教師の中にも、カブラルと同じように日本人に対して偏見を持ち、日本人司祭の養成・叙階を好まない人物もいた。メスキータ神父は、先の書簡で「修練(院)長のチェルソ・コンファロニエロ神父」を上げ、「傾き(偏見)が非常に強い」と批判している(註1)。
 
 ■ローマ直属のコングレガチオ創設が伏碑出現の引き金?
 ほかに一つ、布教方針をローマ式に見直したと思われるイエズス会の新たな動きがあった。1603年、有馬のコレジオに創設された「コングレガチオ・マリアーナ」という名称の、精鋭会員養成のための信心会である(註2)。
 この信心会は、各教区、地域ごとにつくられる一般のコンフラリアと異なり、ローマ本部に直属するという特徴がある。それはすなわちローマ本部の直接の指揮下に入ることを意味するものであり、日本の布教方針「適応主義」が外され、元来のキリスト教価値観に基づく布教方針が採用されるということである。
 イエズス会のこうした新たな動きの中で、当時のイエズス会活動の本拠地でもあり、有馬コレジオが機能していたドン・ジョアン有馬晴信の領内・肥前国島原半島に突如、ポルトガル(イエズス会の布教保護国)様式の伏碑が出現する。ヴァリニャーノ師が最後(3回目)の巡回を終えて日本を去り、コングレガチオが創設された翌年、1604年(慶長9)のことであった。(つづく)
1604年(慶長9)、ドン・ジョアン有馬晴信の領内・島原半島に出現したポルトガル様式伏碑型キリシタン墓碑。(左)が雲仙市小浜町飛子、(右)が島原市三会の発見。いずれも「慶長九年」の銘がある。


 ※1…「メスキータの1607年11月3日付、アクアヴィヴァ総長宛書簡」―結城了悟著『天正少年使節―史料と研究―』(1992・純心女子短期大学長崎地方史研究所発行)160~164頁。この中でメスキータ神父は、日本人に対して偏見を持っていた修練院長のチェルソ・コンファロニエロ神父らの情報をもとにヴァリニャーノ自身が晩年、「長年の経験によって意見を変えたのではないかと思われます。」とも記している。
 ※2…イエズス会指導の聖母信心会コングレガチオ・マリアーナは1563年、ローマ大学で発足した。この会の目的はカトリックリーダーを養成するエリート教育であり、徹底したプログラムが実践された。日本において「ローマの聖母会と同様な組織で、また正式にローマ本部の支部として認められた聖母信心会がはじめて編成されたのは、1603年の2月か3月に有馬のセミナリヨにおいてであった。それはローマ総会長アクアヴィーヴァの特別な指示により、またローマ本部のと同じく〃お告げの聖母(コングレガチオ・マリアーナ)〃の名義であった。」(フーベルト・チースリク著『キリシタンの心』199・聖母の騎士社刊、436~437頁)。
 

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