2019年2月2日土曜日

清田凉泉院とマグダレナ清田のこと(下)

マグダレナ清田
 1627年8月17日、長崎で火炙りの刑により殉教死したこの人物についての基本的な史料は、レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史』の次の記録である。

 「8月17日、聖ドミニコ会第三会員4人が火炙りになった。これ修道者たちの宿主で、伝道士なるフランシスコ・クロビョーエ、デ・トルレス神父の宿主で元来朝鮮人のカイオ・ジエモン、豊後のドン・フランシスコ(大友宗麟)の子孫たる日本人の寡婦マグダレナ・キオタ(清田)、既婚の日本人フランシスカ、この4人は皆聖ドミニコ会の第三会員で、火炙りになった。フランシスコとカイオとは宿主として死刑を受け、また2人の婦人は自宅に祈祷所を持ち、宗教的の物品を隠匿していたといふので、死刑を受けた。
 ※…マグダレナ清田「彼女は30歳の時、寡婦となり、長崎に追はれて来ていた。デ・トルレス神父は彼女の家でミサを献てなければならなかった。この時、彼女は自宅に監禁され、かくて1622年から1627年まで4年間このまゝでいた。彼女は58歳であった。

 マグダレナ清田は「豊後のドン・フランシスコ(大友宗麟)の子孫…」とあるので、ジュスタの娘であることに間違いない。1627年に58歳で殉教した。生年は1569年(永禄12)となる。母ジュスタが清田鎮忠と結ばれる1575年より6年前であるから、前夫・一条兼定との間の娘であった。
 邦文史料に、大友宗麟の「女子(長女ジュスタ)」は「土佐国騒動故、幼稚姫と共に豊後に帰る。其の後、清田太郎鎮忠に再嫁す」とあり、清田鎮忠に再嫁したとき連れ子があったとしている(註1)。その「幼稚姫」なる連れ子こそ、のちのマグダレナ清田であった。
 1599年、30歳で寡婦となり、その前後、長崎に逃れ、ドミニコ会の信者となった。殉教(1627年)後240年目の1867年7月7日、ローマ教皇ピオ9世によって列福された。

清田凉泉院
 イエズス会の記録によると、ジュスタが1575年に再嫁した清田鎮忠との間に2人の娘が生まれた。最初の娘は1578年、「2歳で病死」した。その2年後、1580年度イエズス会年報に登場する「嗣子になる幼い娘」が、のちの「凉泉院」である。
 清田鎮忠・ジュスタ家を継いだのは「養子」で迎えられた「ドン・パウロ(志賀親次)の兄弟」である。1586年、清田鎮忠とジュスタの2番目の女子「嗣子になる」娘がおよそ10歳になったとき結婚し、夫(志賀親次の兄弟)は「主計鎮乗」を名乗り、受洗。「ドン・ペドロ」と称した。
 父鎮忠が領国を追われた1587年(天正15)、同じく豊後を去り、柳川の立花家を頼ったと思われる。その後、細川忠興が豊前国に赴任したあと1609年(慶長14)、細川家に仕えた。のちに細川忠興の後室となる「幾知(圓通院)」も伴っていた。
 1611年以後、細川忠興はキリシタン弾圧を本格化し、キリシタンとして知られた鎮乗・凉泉院夫妻はしばらく黙認されたものの、大友宗麟の孫姫になる凉泉院は寛永13年(1636)改宗。「転切支丹(ころびきりしたん)」となった。藩主細川氏は凉泉院の子孫を「切支丹類族改」の対象とし、「私家来清田石見母転切支丹凉泉院系」として監視下に置いた(註3)。
 凉泉院の没年や享年に関する文書史料、墓碑があるのか否か不明。キリシタン類族の墓碑は公には存在しないので、あるとすればどこかに隠してある。

あとがき
 マグダレナ清田は1569年生まれ、1627年に長崎で火炙り刑を受け、殉教した。一方、清田凉泉院の生年は、彼女がイエズス会1580年記録(書簡)に登場する清田鎮忠・ジュスタ夫妻の「嗣子になる幼い娘」であるとすれば、最初の娘が「2歳」で病死したあとの、1578年~79年頃となる。その確認作業が残された課題となる。ちなみに、細川藩の切支丹類族改帳にある「清田石見母転切支丹凉泉院系」(註2)には「清田石見母/清田凉泉院」とあるのみで、他に記載がない。
 母親はいずれもジュスタ(大友宗麟の長女)であるが、父親は、マグダレナ清田が一条兼定、凉泉院は清田鎮忠。ふたりは異父姉妹であった(註3)。
 
 ※1…狩野照己・前田重治共著『大友の末葉・清田一族』38頁。
 ※2…上妻博之編著『肥後切支丹史・下巻』(1989年(株)エルピス発行)409頁に「私家来清田石見母転切支丹凉泉院系」が掲載されている。
 ※3…「津々堂のたわごと日録」ブログ主氏は2018年7月17日付記事「清田凉泉院とは」で、「凉泉院とは主計鎮乗・室であり、殉教列福したマグダレナ清田の妹であり、…」と優れた考察をしておられる。
細川藩「切支丹類族改」のうち「私家来清田石見母転切支丹凉泉院系」にみられる「凉泉院」と「清田主計鎮乗」(部分)。凉泉院は「清田石見母」とあるのみで、没年・享年の記載がない。また、この系図に「清田石見」は記載されているが、姉妹で細川忠興の後室となった「幾知(圓通院)」は省かれている。


1 件のコメント:

  1. このコメントは投稿者によって削除されました。

    返信削除