2019年1月14日月曜日

臼杵市諏訪の「姫君霊」石祠のこと⑦

 ■大友家の「姫君」を誇りに生きた類族の子孫たち

 キリスト教を信奉する人々が法度(禁教令)違反の罪人とされ、取り締まりの対象となる徳川政権下において、大友氏、一条氏、清田氏らキリシタン大名・武将を供養する墓碑の建立は禁忌とされ、困難であった。
 たとえば大友宗麟の場合、その墓所は1614年に破壊され、その後約二百年にわたって供養碑の建立ができなかった(註1)。寛政年間になってようやく建立されたのは、キリシタン類族改(註2)の縛りの期間(男系5代)が解けたことによるものと考えられる。長崎に避難・移住した清田鎮忠の夫人ジュスタ(宗麟の長女)についても同様であり、死後二百年を経た天保8年(1838)になって「石祠」が建立されている(註3)。臼杵市諏訪の「姫君霊」石祠も、あるいはその頃に建立されたかもしれない。

 「姫君(ひめぎみ)」とは、「①公卿の長女の敬称。②貴人の娘の敬称。③江戸時代、将軍の息女で大名に嫁したものの敬称」と広辞苑にある。「公卿・貴人・将軍」の息女であるという江戸時代の厳格な意味からすれば、一般大名・武将の娘は当たらない。豊後国において守護大名大友宗麟の長女ジュスタが「桑姫君」(註4)と称されたのであれば、彼女が清田鎮忠に嫁いで生まれた長女(天正6年、2歳で病死)は「姫君」と称してしかるべき御方であったと思われる。
 2016年11月、はじめて同地を取材に訪れたとき、一條家子孫の関係者と思われる婦人は、「この祠は私の主人の弟が御世話している。お姫様のお墓であると聞いている。以前、(石祠)は下の方にあったが、ここに移し替えた。石の板(緑泥片岩)が敷かれていた。」と話した。
 「お姫様」とはすなわちジュスタの娘―大友宗麟の孫姫であった。それはしかし、禁教令下にあっては隠さなければならないから、「大友」の文字も母親「ジュスタ」の名前も記すことはできない。清田鎮忠との間に生まれた娘であることは知りつつ、敢えて「𣳾政公乃姫君霊」としたのは、史実を隠蔽する意図があってのことだと理解したい。
 いずれにしても、諏訪の「姫君霊」石祠は、大友宗麟に係るキリシタン一族が一條家を中心に秘かに連絡を取り合い、協力して建立したものであることに違いない。
 キリシタン類族の子孫として生きることが難しかった時代、大友家の血筋をもつ「姫」がその先祖に存在したことを家系の誇りとして生き抜いた、ということだろう。

 ※1…「津久見の宗麟墓は…津久見解脱寺の年代記によると、慶長19年(1614)2月3日焼失したとある。」(『大分縣地方史』第13-16号―久多羅木儀太郎「大友宗麟伝雑考」)。これは徳川幕府のキリスト教禁止令の発布(1614年1月)とこれに基づくキリシタン関連施設及び墓地の破壊の時期と一致する。津久見にあった大友宗麟の墓碑は、慶長19年(1614)に墓所が破壊されたとき、秘かに佐伯藩領内堅田長谷の山中にに持ち込まれ、「天徳寺」という仏寺の名称で隠されていた。この史実は一部の史家によって指摘されてきたが、「かくれ」の性格上、証明が困難である。イエズス会の記録文書によると、佐伯藩初代毛利高政が「かくれのキリシタン大名」であったこと、豊後「なんぐん」にイエズス会の秘密組織「コングレガチオ」が存在したことが判明する。これらと関連して解読されるべきであろう。
 ※2…寛永期(島原の乱)以降、江戸幕府は過去にキリシタン信徒であった者の家族・血縁者の監視を強めるようになり、随時、キリシタン類族帳の作成を命じて特別の監視下においた。貞享4年(1687)にはキリシタン類族改として制度化された。類族の男系は5代、女系は3代にわたり移動と生死を毎年2回報告・登録させ、死亡の際には検死が徹底された。
 ※3…宗麟の長女ジュスタの霊は、淵村庄屋志賀氏が小さな自然石に「大友家/桑姫御前」と刻んだ供養碑を造り、祀っていた。その後、十世の志賀親善が天応8年(1838)、「石祠」を築き、近くの「竹ノ久保尾崎」に移された。さらに明治33年(1900)、淵神社境内に移設され、新たに木造の社殿を設けて「桑姫社」となった。そこにある古い石祠に「…天保八年淵村之十世…親善君卜尾崎𦾔塋築石祠」とある。
 ※4…1820年頃、長崎聖堂助教であった饒田喩義(にぎたゆぎ)が編纂した『長崎名勝絵図』に、「桑姫君墓」と紹介されている。


 ―おわりに―
 2018年11月、臼杵市在住の桑原英治氏から資料を頂戴した。その中に、同「姫君霊」石祠の壊れていた扉を、元の状態にして撮った写真が一枚掲載されている。一般の石祠が観音開きであるのに対し、これは前面が一枚の蓋石で密閉される、隠し型の造りになっていることが判る。また、剣の形をした長い菱形の小さな孔は、十字の変型―剣十字―とみることもできる。
 最後に、その写真とあわせて、長崎淵神社境内にある母「ジュスタ」を祀る「桑姫社」の写真を掲載してこの稿を閉じたい。ジュスタの「姫君」が1578年(天正6)に亡くなってから440年目、写真でもって母と娘が対面したことになる。(おわり)
臼杵市諏訪の「姫君霊石祠」(左)とその母ジュスタを祀る長崎淵町の「桑姫社」(右)




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