2019年1月12日土曜日

臼杵市諏訪の「姫君霊」石祠のこと⑤

 ■複数の人名が記された神名板の謎

 次に神名板に注目したい。見てきたように、神像は「姫君」のそれと思われるものが一個であるのに、ここには複数の人物名が記されている。一条兼定(「土佐國一條権中納言𣳾政公」)、清田鎮忠(「清田太郎鎮忠」、「清田新五左衛門阿波守」…この二人は同一人物)。大友親家(「利根川道孝」…大友宗麟の次男)、そして「𣳾政公乃姫君霊/天正六年三月十八日」)の、計4人である。
神名板

一般には、一つの祠に一個の神(人物)祀られる。この場合、「姫君」がそれであると考えられるが、神名板の中央には「土佐國一條権中納言𣳾政公」(一条兼定)が記され、「姫君」は左端に置かれている。その不一致も謎である。
 「清田太郎鎮忠」と「清田新五左衛門阿波守」は同一人物であるが、何故、ふたつ表記する必要があるのか。「利根川道孝」は何故、「大友親家」と記されないのか。そもそも、これら4人がいかなる関係にあるのか。それらの問題を解読するために、先ず、各人物の略歴から追ってみたい。

 ・一条兼定…公家出自の土佐一条家最後の当主。1543年(天文12)生まれ。父・房基の死去に伴い、7歳で家督。母は大友義鑑(宗麟の父)の娘。妻は伊予国の宇都宮豊網の娘。1564年(永禄7)離別し、その後、豊後国の大友宗麟の娘(長女ジュスタ)を娶った。台頭した長宗我部元親に領土を侵食され、1574年(天正2)2月、追われて豊後国臼杵に大友氏を頼った。夫妻はキリスト教の洗礼を受け、土佐での宣教を決心して戻ったが、留守中の代官長宗我部氏が政権を握り、兼定の長男内正(宇都宮豊網の娘との間の子)を大名として立てて対抗したため、妻ジュスタを豊後に戻し、自分は伊予国に退いた。ここで家臣入江左近に襲われ、瀕死の傷を負った。1585年(天正12)没。

 ・清田鎮忠…大友家につながる戸次氏の支族。国衆の一人で、清田庄(大分市中判田周辺)を領した。大友宗麟の信頼があり、1575(天正3)年、宗麟の長女(ジュスタ)と結ばれ、受洗した。イエズス会の記録によると、夫妻には2歳で1578年(天正6)に病死した娘(註1)と、他に「世嗣ぎとなる娘」(註2)がいた。男子はなかった(註3)。対島津戦では多くの家臣が謀叛する中、最後まで抗したが、大友義統に就く家臣から讒言され、領土を失い、追われた。長崎に逃れ、「天正十五年十一月二十三日」に死去した。法名・玄麟(註4)。夫人ジュスタは長崎で隠棲し、のち、同じく長崎に移住して淵村庄屋となった志賀氏を頼り、そこで没した。「桑姫君」または「阿西御前」とも称され、「桑姫社」として祀られている(註5)。

 ・大友親家(利根川道孝)…大友宗麟の第二子。1561年生まれ。父宗麟は1571年ごろ、臼杵諏訪に寿林寺を建て、親家を僧侶にしようとしたが、親家はこれを嫌い、キリシタンになった(1575年受洗、ドン・セバスチャン)。寿林寺はその後、イエズス会の修練院となった(註6)。元服したとき(1578年)、宗麟は大友家の御同紋諸家の一つ・林家の名跡を継がせ、「林新九郎」と名乗らせた。1580年、安岐の田原宗家を継ぐ。一時期、キリシタン信仰から遠ざかったことがあるが、「悲惨な運命に立ち至り、…過去の不品行の償いをし」、キリシタンに戻った(註7)。1587年(天正15)、父宗麟が死去したとき、葬儀を取り仕切り、墓地の近くに「美しく巨大な十字架」を建てた(註8)。大友氏改易後は、立花宗茂に付き、のち1609年(慶長14)に細川忠興に仕官、利根川道孝と改名した。1641年(寛永18)死去。子孫は細川家の直臣となり、松野姓を称した。

 ・「姫君霊」…「姫君」の命日と思われる「天正六年三月十八日」と併記され、名前がない。「天正6年」は「西暦1578年」、これはイエズス会宣教師ルイス・フロイスの「1578年10月16日付書簡」に登場する清田殿・ジュスタ夫妻の「2歳くらい」で病死した「幼女」の死亡年と一致する。
 一条兼定に嫁いでいたジュスタ(宗麟の長女)が豊後に戻り、清田鎮忠に再嫁したのは1575年(天正3)であるから、3年後の1578年(天正6)に「2歳で亡くなった娘」は清田殿との間の幼女であった。そうであれば、「清田鎮忠乃―」とすべきであるが、神名板には「(一條)𣳾政公乃姫君霊」と記されている。もっとも「姫君」の称は、公卿・貴人・将軍の息女を言う(広辞苑)ので―「大友ジュスタの姫」とすることは可能であるが―大名でもなかった清田の娘を「姫」と称することはできなかったこともある。
 この表記の問題は、施主一条氏の意図が働いていると考察される。神名板の中央に「土佐國一條権中納言𣳾政公」と太文字で記され、その下に小さく「当家之祖先」とあるのは、この石祠が「一条権中納言兼定(泰正公)」を「祖先」にもつ同家の子孫によって建立されたものであることを物語っている。すなわち供養もしくは顕彰のため同祠を建立し、「姫君霊」を祀ったのは清田氏ではないのである。加えて、姫君の本来の父親である清田鎮忠の名前を重複して記している不自然さは、施主一条家の清田家に対する配慮の表れであろう。(つづく)

 ※1…「1578年10月16日付、臼杵発信、ルイス・フロイスのポルトガル・イエズス会司祭・修道士宛書簡」
 ※2…「1580年10月20日付、豊後発信、ロレンソ・メシヤのイエズス会総長宛1580年度年報」。鎮忠とジュスタとの間に「男子はなかった」が、鎮忠と前妻との間にはあった。
 ※3…「1586年10月2日付、臼杵発信、ペロ・ゴーメスのアレシャンドロヴァリニャーノ宛書簡」
 ※4…柳川に移住した清田一族―3代目当主清田正登作製の清田氏系図。
 ※5…桑姫社(長崎淵神社境内)はこれまで、マセンシア(1605年に長崎で病死した在俗修道女)説が唱えられてきたが、桑姫とマセンシアの死亡年に22年の誤差がある。筆者はこの問題を究明し、大友家の「姫君ジュスタ」(宗麟の長女)であることに辿り着いた。拙稿「桑姫再考」、「隠された大友家の姫ジュスタ」参照。
 ※6…場所は、アルメイダ以来の古い教会と連続した「(臼杵)城に近く」、「川に沿った」ところにあった(「1578年10月付、臼杵発信、ルイス・フロイスの書簡」)。「臼杵の海辺、諏訪明神の側…諏訪の北に山あり…佳景の霊地なり。」(『大友興廃記』)。「臼杵城の正面にあたり、中に入江(を挟んだ)対岸」(フロイス『日本史』豊後篇Ⅲ第68章)。
 ※7…ルイス・フロイス『日本史』豊後篇Ⅲ第66章。
 ※8…ルイス・フロイス『日本史』豊後篇Ⅲ第72章


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