2019年1月9日水曜日

臼杵市諏訪の「姫君霊」石祠のこと①

 ―はじめに―

 大分県臼杵市大字諏訪に、一条兼定と清田鎮忠、利根川道孝(大友宗麟の次男親家)、そして「𣳾政公乃姫君霊」の文字が刻まれた謎の石祠がある。一条兼定、清田鎮忠、大友親家はいずれもキリシタン武将として知られた人物である。「姫君霊」の横に「天正六年三月十八日」とあり、姫君の死亡年月日と思料される。
 筆者がこの存在を知ったのは、イエズス会宣教師らが書き残した文書史料をもとに豊後国キリシタン史をひもとき、調査する過程でのことであった。「1578年10月16日付、ルイス・フロイスの書簡」に、これに関連すると思われる次の記事がある。

 …ここ豊後においては(尊師らが)知れば喜ぶであろう他の一事が生じた。すなわち以下のようである。老国主(大友宗麟)は一女を、清田殿と称する同国の主要なる殿の一人でこの臼杵より4、5里の所に屋敷と所領を有する人に嫁がせていた。彼らには2歳くらいの娘が一人のみあって、非常に愛していたが、その娘が重い病にかかったの、諸々の偶像に供物を捧げ、祈祷するためただちに仏僧や妖術師、占者、その他同類の卑しき者多数が呼び寄せられた。…彼らがすることが少しも効果なく、幼女が死ぬことを許し給うた。…父親(清田殿)は妖術師らを(家来に)殺させた。…(そして)キリシタンになるために修道士のもとに迎えの馬と人を遣わした。…それから2,3日後、フランシスコ・カブラル師がかの地に赴き、彼と高貴な人数名に洗礼を授けた。

 1578年(天正6年)、豊後国々主・大友宗麟の受洗と前後して記録されたこの記事は、家臣清田鎮忠とその夫人(宗麟の長女)との間に起きた幼女の死去と、それに伴う清田殿の受洗を伝えるものである。
 同じくイエズス会の史料「1582年度年報」に、「ジュスタという名の国主の娘は、清田殿(鎭忠)の夫人である。」とある。
 宗麟の長女ジュスタははじめ、土佐国の大名・一条兼定に嫁ぎ、内乱が起きたため1575年、豊後国に戻された(註)。清田鎮忠に再嫁したのはその後になるが、「1578年度年報」に「彼ら」清田鎮忠と夫人ジュスタの「2歳くらいの娘一人」が出てくるので、1575-6年頃と思われる。
 ところで、インターネット検索で得られる同石祠にかんする情報は、臼杵市教育委員会の「昭和63年1月」調査に基づくもので、表題が「中山古墳と祠」となっている。石祠は近世時代のものであるのに、古墳時代の遺構とあわせて説明してあるため、理解に苦しむ資料である。ただ「祠の中に納められている」という「碑」(神名板)に、前記3人の氏名とともに「姫君霊/天正六年三月十八日」とあるので、1578年(天正6)に2歳で病死した清田鎮忠・ジュスタ夫妻の幼女の霊を祀るものではないか、と推察される。
 イエズス会史料に記録される〃1578年に2歳で亡くなったジュスタの姫〃が、ここに記される「姫君」かどうか、その史実を究明するには、現物を確認するほかはない。筆者は新たな知見を得るべく2016年11月、現地に向かった。(つづく)

 ※…一条兼定とジュスタ夫人が離縁を余儀なくされたのは、長宗我部元親の謀叛事件が原因であった。兼定は自分が殺害される計画があるのを知らされ、「敵が決めたことが実行されるに先立って、姫(ジュスタ夫人)を豊後に送り返した。」(フロイス『日本史』豊後篇Ⅱ、82~83頁)。兼定自身も土佐国辺境に避難したが、長宗我部に買収された側近者(入江左近)によって瀕死の傷を負い、一命は取り留めたものの、「あたかも身体障害者のように」なった。1585年、流謫地の戸島で死去した。
「姫君霊」石祠




 

0 件のコメント:

コメントを投稿