2022年12月3日土曜日

カタリイナ永俊⑥

  ここから後編として、薩摩国鹿児島藩時代のカタリイナ永俊について述べたい。

喜入忠政のこと

 島津家本「旧記雑録後編六四」によると、カタリイナ永俊が夫島津忠清(1571-1645)とともに一女(11歳=桂安)一男(7歳)を伴い薩州鹿児府に赴いたのは「慶長14年(1609)12月3日」のことであった。その半年以前(1609年春)、薩摩国川内京泊を拠点に布教を展開していた托鉢修道会の一派・ドミニコ修道会が薩摩国から追放され、長崎に避難しているので、両者には何らかの因果関係があると思われる。島津忠清・カタリイナ夫妻が長崎を経由して鹿児島に戻った直後(註1)、有馬晴信は長崎港沖で黒船マドレ・デ・デッサ・セニューラ・ダ・グラッサ号を撃沈した。それは晴信がイエズス会と謀り、鍋島領藤津郡―ドミニコ会が1606年、三つの教会を建て進出したところ―を奪回するための作戦でもあったが、このあと岡本大八への賄賂、さらには長崎奉行暗殺計画が暴露されるに至り、計画は挫折した。晴信は甲斐国初鹿野丸林で処刑され、その過程で息子・直純は正妻マルタ(妙身)と離縁し、家康から提示された孫娘・国姫と結婚した。述べたように、1612年度イエズス会日本年報はマルタ(妙身)が島原半島北西に位置する千々石(ちぢわ)の山中に追放され「藁小屋の中に置かれた」と伝えている。

 晴信処刑事件のあと1614年1月(慶長18年12月)、幕府はキリスト教禁止令を発布し、同年11月、キリシタン・宣教師らを国外に追放した。有馬氏もまた同年7月、長年住み慣れた故郷高来(島原半島)から追放され、日向国縣(あがた)に移った。有馬氏の旧領高来は、晴信がイエズス会とともに30年余りかけてキリスト教教化政策を推進し、全住民がキリシタンとなっていた。幕府がこの地に遺されたキリシタンの一掃作戦に着手したのは、大追放事件直後の1614年11月下旬である。「(幕吏)山口勘兵衞直友は長崎奉行長谷川左兵衛と謀り、肥前・薩摩の兵一万を徴して有馬に赴いた」(註2)。この時、薩摩から派遣されたのが、のちにマルタ妙身を後妻に迎えることになる喜入忠政である。「忠政は家臣・田代内記清友、田代三右衛門清方、酒匂源兵衛、松元平兵衛らを率いて長崎に赴き、山口直友の下に属してその命を聞き軍功を立てた。」とされるが、その際、不思議な行動を取った。「薩摩兵は海岸に沿って東に向かい、三会・島原の村村へ行き、キリシタンたちにしばらく山に退くように指示し」、長谷川左兵衛・山口直友には「この地にはキリシタンは一人もいない」、と偽って報告をしたというのだ(註3)

 喜入忠政という島津氏家老は如何なる人物であったのか、この一件である程度推察できるであろう。彼は役人として政治的に動くことはあったとしても、中身は求道者であり、徳を備えた人であった。その後、カタリイナ永俊の仲介があったかもしれない、連れ子のあるマルタ(妙身)を後妻に迎え、藩主島津家久の家老として誠実に奔走することになるが、義母カタリイナ永俊と彼女の庇護を得て集まった明石掃部子・小三郎、小三郎を雇い入れていた町の商人・しゅあん上山又左衛門、旧豊臣氏のキリシタン遺臣らを別の側面から擁護する中心的存在、影の理解者であったと思われる。連れ子の於満津(有馬直純の娘、のちに基太村元茂に嫁ぐ)、忠政とマルタ妙身との間に生まれた娘・於鶴も最後、種子島に遠島幽閉され、カタリイナのもとに送られたのは、同じく「きりしたん宗門ゆえ」であった。背景にマルタ妙身の夫喜入忠政の理解と擁護があったことは間違いない。幕府のキリシタン禁圧政策が厳しくなる中で、最終的には恭順の態度を取らざるをえなかったが、その狭間で生きた喜入忠政、そして彼を支えた家臣田代一族らの苦悩の日々があった。これは、カタリイナ永俊のキリシタン史を語る一方で、記憶されなければならない歴史である。

 鹿児島県枕崎市桜山本町の長善寺裏山に、喜入家累代墓地がある。五代季久からのもので、6代、9代を除いて19代まで並んでいる。7代忠政(忠続)の墓は最初の5代季久の次に建立されたが、その位置は5代墓地からさらに山奥に入った隠されたような場所にあり、しかも家老格に不相応な円塚(まるづか=土饅頭型)である。「キリシタンゆえ」に幕府から処刑されたカタリイナ永俊の養父・ジョアン有馬晴信(1561-1612)の墓も、山梨県甲州市初鹿野の山中に佇んでいるが、同じく「円塚」である(註4)。喜入忠政は隠れのキリシタンであったか、もしくは妻マルタ(妙身)のゆえに「きりしたん類族」として正式の墓碑が建立できなかったものと考えられる(註5)。(つづく)

写真】(左)喜入忠政の墓(枕崎市長善寺墓地)、(右)ジョアン有馬晴信の墓(甲州市初鹿野)=1944年、中村星湖のスケッチ。
【写真】喜入家累代墓地の墓碑に刻まれた花十字家紋


註1】…「種子島家譜五」に「然者其地へ永春(永俊)逼塞にて候、如御存知之彼御方之儀きりしたん宗之由候而…最前従長崎被参候時持参之道具共御座候つるを以御検者被焼捨…」とある。

註2】…『枕崎市史』(1969年発行)261頁。ドミニコ会史料『ファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ神父伝記・書簡・調査書・報告書』(1994年・聖ドミニコ修道会発行)は、「(1614年)諸教会を打ち壊し、また神父たちを追放したので、左兵衛はキリシタンたちを叩きのめすのは簡単なことのように思われた。そして、それを実現するために、主だった者たちと大村・平戸・肥前・筑後の諸藩から多数の兵士たちを集めました。彼はここに集合させ、また多数の刀、火縄銃、槍や弓を準備して有馬に出立し、有馬の古い名である高来(たかき)郡全域に布告を発して、全員が棄教するように命じた。」と記している(同書94頁)。

註3】…レオン・パジェス『日本切支丹宗門史・上』362頁。『枕崎市史』(1969年発行)261~262頁。

註4】…カタリイナ永俊は有馬晴信の養女であった(「國乗遺聞」)。マルタ妙身は晴信の息・直純の元本妻であったので、晴信は義父にあたる。晴信の墓「有賀八幡」は1944年、晴信の謫居跡を現地調査した中村星湖らによって、初鹿野の山中に存在することが確認された。

註5】…喜入家8代忠高はカタリイナの種子島配流の翌年(寛永12年3月5日)29歳で自決し、その妻(島津久慶の妹)も一ヶ月後(寛永12年4月18日)自決した。妻の兄・島津久慶(日置島津家)は藩の家老であったが、死後、キリシタンであったとして死体を掘り上げて磔にされた(枕崎市観光協会ネット掲載「枕崎の殿様喜入氏を探る」)。また『枕崎市史』には「久慶は家久公の家老で、異国方・宗門方を仰せつかっていたが、法名・処安(ジョアン)忠省とあるように、切支丹信者であった。…あるいは忠高夫婦も切支丹として自決したかとの推察もありうる…」とある(同史277-278頁)。鹿籠長善寺・喜入氏累代墓地にある8代忠高の墓も、7代忠政と同じく「円塚」である。


2022年11月18日金曜日

カタリイナ永俊⑤

 ■小西行長・カタリイナ夫妻の娘・妙身「マルタ」

 カタリイナ永俊の基本史料とされる「薩藩旧記雑録後編」藩史局編者見解には、カタリイナの最初の夫が小西行長であり、娘(妙身)が一人いたこと。二番目の夫が島津忠清で、その娘・桂安が藩主島津家久の夫人であることが記されている。母カタリイナが生んだ娘二人―妙身と桂安は異父姉妹であった。このうち妹の桂安は鹿児島藩初代藩主島津家久に嫁ぎ、2代藩主となる光久を生んでその地位を確立したが、「異教徒であった」(註1)

 一方、姉の妙身は母カタリイナと同様、キリシタン信仰を貫き、苦難の道を辿った。二回結婚し、連れ子を伴った点でも似ている。母の連れ子は小西行長の娘、妙身の連れ子は有馬直純の娘であるから、ここにも有馬・小西両家の繋がりを見ることができる(註2)

 ところで、前掲史料にはカタリイナの娘・妙身の最初の夫が有馬直純であること、そして妙身の洗礼名が「マルタ」であることについては記していない。この事実は意外と周知されていないが、二つの史料によって割り出される。一つは薩藩史料のうちの喜入氏関係史料。他の一つはイエズス会史料である。「藤原姓島津氏族喜入氏系図」によると、喜入忠政に二人の「女子」があり、姉の「於満津」の「父は県(あがた)の士有馬式部大輔(直純)」とある(註3)。すなわち忠政の子ではなく夫人・妙身の連れ子であって、前夫有馬直純との間の子であった。これによって妙身の最初の夫が有馬直純であったことが分かる。

 他方、イエズス会史料は直純の結婚が三回あり、相手の洗礼名を記している。最初が1598年、行長の兄ベント如清の娘マルタであったが、これは婚約のみで実現しなかった。二回目が1604年、大村嘉前の娘メンシアと結ばれたものの、メンシアが一年も経たないうちに亡くなった。三番目が1607年頃、相手は「マルタ」であった。これについて結城了悟氏は史料をもとに調査し、著書『キリシタンになった大名』に詳しく述べている。ただし、氏は執筆当時、邦文史料の確認が十分ではなかったと思われる。次のような曖昧な表現をしている。

 「(直純の)三番目の奥方は家来の皆吉久兵衛絡純の娘で、マルタと呼ばれていた。その結婚によって一人の娘が生まれた。(註4)

 「皆吉久兵衛絡純」という人物を結城氏が如何なる史料によって上げたのか、出典を記していないので不明だが、有馬氏の史書『國乗遺聞・巻之二』には「皆吉久右衛門續能」を「皆吉久兵衛續能」とする表記がある。両者は同一人物であった。そうすると直純の三番目の奥方は、正しくは「皆吉久右衛門續能の娘(=カタリイナ)の娘」であり、彼女はイエズス会の史料によって「マルタ」の洗礼名をもつ女性であったことが判明する。

 直純とマルタ「妙身」は、有馬の日野江城もしくは有馬にあった教会で「婚礼の秘蹟」によって結ばれた。その頃、父・晴信はイエズス会とともに「祖先の領有した大部分(藤津郡=ドミニコ会が進出した地域)を手に入れようと」画策していた。それは徳川幕府との駆け引きでもあり、途次、家康が提示した「曾孫女(国姫)」を息子・直純の新しい夫人として受け入れざるをえなかった。1611年(慶長16)のことである。ここから有馬氏の転落とマルタおよびすべてのキリシタンたちの苦難が始まることになる。マルタは有馬家を追放され、「長崎近く(千々石)の或る山中に置かれた」(註5)

カタリイナ永俊の二度目の結婚と行長遺児・マルタ(妙身)

 マルタ(妙身)の母カタリイナ永俊はそれ以前、文禄の役失態の廉で小西行長領宇土に預けられていた薩州家島津清忠と1597-8年頃結婚し、関ヶ原戦(1600年)後は熊本藩加藤清正のもとにあった。1609年12月、島津氏関係者(義久、常久)の尽力で鹿児島に帰還することになるが、その間、カタリイナは忠清との間に一女(1599年生)一男(1602年生)を設けている。妙身マルタは父行長亡き後、あるいは皆吉家に戻っていたかもしれない註6)。父母から離れ、そして結婚した夫直純からも離縁させられた妙身マルタは、孤独な境涯に立たされたであろう。「まだ20歳で、いとも上品に育てられていたにもかかわらず、デウスを傷つけるよりは、日本から脱出して極度の貧困にも耐える決意をしていた」、と「1612年度年報」は伝えている(註5)

 このあと、いかなる機縁で喜入忠政と結ばれるのか、詳細は不明だが、『枕崎市史』はその出会いが1614年秋のことであったと述べている(註7)。(つづく)

【写真】有馬・宇土・鹿児島が近距離で描かれているキリシタン時代の西九州地図

註1】…1616年、マテウス・デ・コウロスによって書かれた年報書簡「長崎、1617年2月22日発信、Jap.Sin.58, 437-38.」。

註2】…行長と晴信のキリシタン信仰に基づく友情の機縁は1587年、秀吉の九州征討後、危うく自領を失いかけた晴信に対し、行長が温情の言葉をかけた出来事にあったようだ。「1588年度年報」で宣教師が記録している。拙著『ドン・ジョアン有馬晴信』32-38頁参照。

註3】…『枕崎市史』(1969年刊)264頁。

註4】…結城了悟著『キリシタンになった大名』(2020年聖母の騎士社刊)70-71頁。最初の婚約者と三番目に結婚した人が同じキリシタン名「マルタ」であるため、「しばしば歴史家が混乱している」(結城氏)。

註5】…「1613年1月12日付、1612年度日本年報」。『十六・七世紀イエズス会日本報告集・第Ⅱ期第1巻』(1990年同朋舎出版)340頁。

註6】…薩藩史料「旧記雑録後編」藩史局見解によると、カタリイナ永俊が島津忠清と結ばれたのは「行長滅ヒタル後」すなわち関ヶ原戦後のことである。ところが、永俊・忠清夫妻が鹿児島に帰還した1609年12月、「一男(7才)と一女(11才)を連れていた」という(『出水郷土史』250頁)。その「一女」がのちの家久夫人・桂安である。父忠清と母カタリイナのもとで生まれた桂安が1609年当時11歳であるから、両親の結婚は1597-8年頃、もしくはそれ以前となる。最初の夫小西行長が存命中のことであり、あるいは、行長の対島津政策の一環であったと思われる。

註7】…『枕崎市史』261頁~「喜入忠政の長崎出征」。



2022年11月14日月曜日

カタリイナ永俊④

 ■有馬家の娘カタリイナとしてー

 欧文史料に詳しいキリシタン史研究家・結城了悟氏(カトリック司祭)は、宣教師がカタリイナ永俊を記録した文書は二つしかないと著書『鹿児島のキリシタン』に書いている。筆者はその一つを『十六・七世紀イエズス会日本報告集第Ⅱ期第3巻』(1997年同朋舎出版)から引用して冒頭に紹介したが、結城氏はこれとは異なる文面の同年報を取り上げている。「Jap.Sin.文書」版のそれである(註1)

 「イエズス会の一神父が薩摩国のキリシタンを訪問して、彼らに告解や聖体の秘蹟を授け、これほど盲目的で頑迷な異教の中にあっては、さらによく信仰を守るように、と彼らを励まし慰めました。彼らの柱となり庇護者となっていたのは、カタリーナというその国の姑です。きわめて高貴な人で、両親や祖父母たちも信徒だったから熱心なキリシタンです。キリスト教を棄てるようにという彼女の女婿の挑戦に対抗する霊的力を、彼女はこの神父来訪によって特別に受けることができました。

 この中で宣教師は、カタリイナ永俊を「彼ら(薩摩国キリシタン)の柱」であり「庇護者となっていた」と、立場と役割を端的に表現し、その上で「きわめて高貴な人で、両親や祖父母も信徒だったから熱心なキリシタンです」と、系譜的な説明を加えている。見てきたように、カタリイナの出自は皆吉氏であり、肥前国高来の日野江城主・有馬氏に仕える「最高位の代官」の家柄であった。皆吉権左衛門は姓を「東」に替え、「東殿」の名前で呼ばれていた。ルイス・フロイスは著書『日本史』で「東殿」に言及し、「彼は仏僧たちと深い姻戚関係にあり…いく分、人並み外れた貪欲に支配されていた」と記している(註2)。カタリイナ永俊の兄弟権左衛門は役人的気質の持ち主であり、キリシタンではなかったようだ。それで「カタリイナの両親や祖父母も(キリシタン)信徒であったから、(カタリイナも)熱心なキリシタンである」と言うのは矛盾がある。もしかしたら、Jap.Sin.版年報が言うカタリイナの「両親・祖父母」は皆吉氏ではない、カタリイナの「養父母・養祖父母」―つまり有馬氏の「晴信・ジュスタ夫妻」とその親「義貞・マリイナ夫妻」を指しているのではないだろうか。〈養父〉晴信はその生涯をイエズス会に捧げたキリシタン大名であったし、また〈養祖父〉義貞は文人肌の誠実な武将として有馬家ではじめて受洗した人物であった(註3)。その情報を周知していたイエズス会宣教師たちは、カタリイナについても「有馬(晴信)家の娘」として認識していたのであろう。「きわめて高貴」との言葉が、それを裏付けている。

薩摩藩文書から有馬氏の事蹟が消された謎

 冒頭、筆者はカタリイナ永俊の出自・皆吉氏を「小西の士」であるとする薩藩文書の間違いを取り上げ、実は「有馬氏の家臣」であると証拠史料を上げて説明してきた。これと関連するもので、カタリイナの娘・妙身の前夫・有馬直純(晴信の息子・有馬家第14代)を「県(あがた=延岡)の士・有馬式部大輔(直純)」とする文書がある(註4)。これも誤りである。有馬直純と妙身の結婚は、日向国縣(あがた)に転封する以前の1610年(慶長15)以前、有馬に於いて執り行われ、娘・於満津も1612年、肥前国の千々石または長崎で生まれている。ゆえに妙身の前夫直純を説明する場合、正しくは「有馬の士」としなければならない。また、直純の官位も「左衛門佐」であるのに「式部大輔」と誤っている。喜入氏の文書(系図)が後世になって記述されたため、錯誤があると言えばそれまでだが、行長については「肥後国宇都の城主小西摂津守行長」と正しく表記されているので、有馬氏の事蹟が故意に歪められている、との感を否めない。

 同じキリシタン大名でありながら、有馬晴信との関係は忌避され、小西行長とのそれは採られた―その理由は何か。答えは、当時の封建社会的価値観に依拠するものであった、と言えよう。すなわち有馬晴信は賄賂と長崎奉行暗殺の陰謀が暴かれ、幕府によって処断された国家的罪人であったのに対し、小西行長は関ヶ原戦で敵将として死んだ侍(サムライ)であった。侍社会の論理が働いていたのだ。有馬氏と密な関係にあったカタリイナ永俊が、なかば謎に包まれてしまったのも頷けるであろう。(つづく)

【写真】カタリイナ永俊と有馬・小西・島津氏の関系図(宮本作図)

註1】…正式名称は「日本・シナ部Japonica-Sinica」。日本では上智大学キリシタン文庫にその大半が写真版本として保存されている。

註2】…松田毅一・川崎桃太編『フロイス日本史10・西九州篇Ⅱ』(1979・中央公論社発行)35頁。

註3】…フロイスは『日本史』で、有馬義貞について以下のように描写している。「彼は、日本の貴人たちのもとでは珍しく、大いに真理を愛好する君候であり、性格は温厚で正義の味方であり、所業は完全で、家臣の間ではきわめて好かれ、寛大、寛容なことで愛され、歌すなわち日本の詩歌に造詣が深く、優れた書道家であり、統治においては老練、慎重かつ賢明であった。」(前掲『フロイス日本史』32頁。義貞の生涯については、福田八郎著『信仰の耕作地・有馬キリシタン王国記』(2020年聖母の騎士社発行)が詳しい。同書100~109頁。

註4】…喜入氏関連の文書『喜入氏系図』―喜入忠政の「女子・御婦理又ハ於満津」(実は母妙身の連れ子、前夫有馬直純との間の娘)の項目に「父ハ県ノ士有馬式部大輔、母ハ肥後宇都ノ城主小西摂津守行長の娘ナリ」とある(『枕崎市史』(1969年刊)264頁)。


2022年11月10日木曜日

カタリイナ永俊③

 ■有馬氏の代官・皆吉氏「東殿」

 島原半島の有馬庄を本貫とする戦国大名有馬氏は、不受公・第十代晴純(仙巌)の時代に彼杵郡・藤津郡・杵島郡を領有し、さらに三根・佐賀・神崎郡をも支配下に入れて最大版図を獲得した。その後、佐賀の龍造寺氏が勢力を巻き返し、11代義貞、12代義純は戦に明け暮れた。そして13代晴信に至っては、味方の領主らの敵方への寝返りもあって、旧来の領地さえも蝕まれていた。窮地に陥った晴信は天正8年(1580)、受洗してイエズス会と連携し、さらに島津氏の支援を請うに至った。龍造寺との最終決戦となったのは天正12年(1584)、沖田畷の戦である。ほとんど勝算はなかったものの、海上から船で攻撃に加わったイエズス会提供の大砲が威力を発揮し、奇跡的勝利を収めた。それでも藤津郡など旧領地の回復が叶わなかったのは、沖田畷戦が島津対龍造寺の戦であって、有馬氏単独の勝利ではなかったこと。そして、島原半島北目が島津氏支配下に置かれたことに拠る。3年後の天正15年(1587)、秀吉の九州討征により島津氏の支配は解けたが、それでも祖父晴純が領有した佐賀の藤津郡の回復ができなかった。秀吉の同地に対する朱印状は、龍造寺本家の家督を継いだ政家の手にあり、晴信側にはまだ相応の力がなかったのだ。藤津郡奪回の試みはこのあとも継続された(註1)

 こうした戦国時代における有馬氏側の事情を見ていくとき、かつて「高来郡東郷と佐賀郡西泉の地頭職」にあった御墓野(のちの皆吉・東)氏が、有馬氏に帰属し、晴信時代には「有馬の最上位の代官」として重用された理由が頷けよう。外山幹夫氏(1932-2013)は著書『肥前有馬一族』(1997・新人物往来社発行)で、「有馬の地には東殿・西殿といわれる二人の代官がいて統治していた。…その地位はフロイスによれば〃身分の高い貴人〃であり、〃有馬の最上位の代官〃であった。」と記している(同書119頁)。二人の代官「東殿・西殿」のうち「東殿」が「皆吉氏」である。名前は「(東)権左衛門」。「皆吉久右衛門續能」の子であり、カタリイナ永俊の兄弟になる人物である。

■晴信の養女として行長に嫁いだカタリイナ

 有馬氏の「最高位の代官」皆吉氏一族の女性であるカタリイナが、キリシタン大名有馬晴信によってどのような扱いを受けたのだろうか。有馬氏の史書『國乗遺聞』には、皆吉續能の女(カタリイナ)が晴信の「養女」として記録されている(註2)。同書「巻之二、公子公室」の「晴信公」の項、「七公子」の記載のあとの次のくだりである。

 「御養女、御系譜記載セズ。/實皆吉久右衛門續能女。晴信公御養女トシテ小西摂津守行長。…

 「皆吉久右衛門續能の女」すなわちカタリイナが、小西行長の夫人であるというのは、「薩藩旧記雑録後編」所収の文書にも藩史局編者の見解として記されていた。有馬家の史料『國乗遺聞・巻之二』はそれが史実であることを証明してくれるものである。

 それだけではない。「皆吉久右衛門續能の女。晴信公の御養女として小西摂津守行長に嫁す」という一文は、カタリイナと小西行長との結婚が、キリシタン大名有馬晴信によってなされたことを意味するものである。つまりは、カタリイナはキリシタン大名小西行長と有馬晴信とを繋ぐ絆としての標(しるし)であったのだ。こうした背景が「1624年度年報」に見るような、弾圧の嵐の中にあって島津の藩主や家老たちの前でも怯(ひる)まない、信仰を敢然と表明する強い女性たらしめたのであろう。(つづく)

有馬氏最大勢力時代の領域図

註1】…晴信の藤津郡奪還の執念はこのあと、イエズス会の意図と重なって展開される。それは、薩摩国川内の京泊教会を経て1606年に佐賀・藤津郡に進出したドミニコ修道会を〈秘かに〉排斥するものであり、具体的には、①長崎港沖での黒船爆沈事件、②幕府の役人岡本大八を介する賄賂による藤津奪回の企て、③そして、大八の密告による晴信らの長崎奉行暗殺計画暴露事件へとつながり、最期、晴信の命取りとなった。拙著『ドン・ジョアン有馬晴信』第二章「一味同心・岡本大八事件」参照。

註2】…『國乗遺聞』は有馬氏研究の必須史料。近年、福井県文書館に「デジタルアーカイブ」としてその複写史料が保管・公開されるようになった。


2022年11月9日水曜日

カタリイナ永俊②

 ■カタリイナの出自―皆吉氏は有馬の家臣

 茂野幽考氏が著書『日南切支丹史』(1951年発行)でカタリイナ永俊を取り上げたのは、戦後間もない頃であった。すでに70年余が経っている。それでも彼女の出自である皆吉氏のこと、キリシタン大名・小西行長との関係など、いま一つ謎に包まれたままであるのは、述べたように宣教師の記録が少ないことに加え、彼女の足取りが薩摩藩のみならず肥後(熊本)、肥前高来(たかき=島原)、長崎など広域に跨がっているため、邦文史料の確認が容易でないことに依るものと思われる。

 筆者は20年ほど以前(西暦二千年前後)、鹿児島のキリシタン史で肥後国南部の小西領にいたキリシタン約1500人が、関ヶ原戦後の1600年暮れ、八代(やつしろ)から舟60隻で鹿児島領に避難した史実に接し、興味を抱いたことであったが、その後、地元島原(高来・有馬)のキリシタン史の調査に没頭した(註1)。今ふたたび、鹿児島のキリシタン史―とくに関ヶ原戦(1600年)で豊臣秀頼に与したキリシタン武将らが薩摩領に潜伏し、カタリイナ永俊と連絡を取り合っていた史実等に接し、改めて同地がキリシタン史に果たした役割の重要性を認識する一方、記述史料の一部に誤りがあることに気付いた。その一つは、カタリイナの出自―「皆吉氏」にかんするものである。その根拠となった史料は「薩藩旧記雑録後編」の中にあり、藩史局編者が2代藩主光久公の母・桂安とその母・カタリイナ永俊について述べた註記見解である。これまでカタリイナ永俊の基本史料とされてきた。(註2)

 「光久公御母堂桂安夫人島津備前守忠清ニテ、其御母肥後士皆吉久右衛門續能ニテ法名永春(永俊)ト云。始肥後宇都(=宇土)城主小西摂津守行長ニテ、女一人、行長滅ヒタル後、島津忠清小西御預ニテラレシニラレ、桂安夫人、慶長十四年鹿府、忠清死後堅野今郷田氏辺ラレ、堅野御祖母様トモ、又永俊尼トモ為申由也。行長メル女子喜入摂津守忠政トナレリ」。

 ここに「御母(カタリイナ)は肥後の士・皆吉久右衛門續能の女(である)」とあることから、カタリイナ研究者の多くが永俊は「肥後の士・皆吉氏」の出身であるとしてきた。ところが、筆者は有馬晴信の調査をしていたとき、有馬(高来)日野江城の城主・有馬氏の家臣として皆吉氏が登場する史料を目にしたことがある。有馬氏の史書『藤原有馬世譜』の「不受公」(有馬氏第10代晴純)の項である。

 「(不受)公生質温潤にして文武の御才あらせられ……御領地大に廣まれり。当国佐賀の城主御墓野出羽守長能も此頃より当家に附属す。御墓野が先祖は年久しく肥前国の住人にて、貞和観応の頃、又次郎重能高来東郷御墓野村、同国佐賀郡西泉の地頭職として古き文書等、其家に伝来す。長能が子・續能が時、皆吉と改め、其子・皆吉権左衛門、東氏を冒し、後、有馬氏を賜りて因幡守と称す。(註4)

 皆吉氏は元「御墓野」氏を称し、南北朝時代貞和・観応(1345~52)の頃、佐賀郡の地頭職であった。「出羽守長能」の頃、有馬氏第10代晴純が佐賀に進出し、有馬家に附属した。有馬家のもう一つの史書『國乗遺聞』には「晴純公麾下の士」8人の城主のうちの一人として「佐賀城主・御墓野出羽守(長能)」が記されている。ところが、その子「久右衛門續能」の時代、龍造寺氏が台頭して転機が訪れる。『國乗遺聞・巻之三』に次のようにある。

 「佐賀城主・御墓野出羽守長能、此(晴純の)御代、初て麾下に属し、士将の魁首に列す。子・皆吉久右衛門續能、幼穉(ようち)の時、当城を龍造寺隆信に抜かれ、後、大江に於て食邑を賜ふ…(註5)

 龍造寺隆信によって佐賀を追われた「續能」は、有馬氏の居城・日野江城の近くの大江に移ることになるが、その際、姓を「皆吉」に改めたらしい。このあと、有馬氏の「士将」として活躍するこの人物こそ、カタリイナ永俊の父「皆吉久右衛門續能」であった。(つづく)

【皆吉氏系図】


註1】…キリシタン大名・有馬晴信(1563ー1612)の没後400年、ルイス・デ・アルメイダ師の来島450年等を記念する取り組みであった。島原新聞に関連記事を連載し、2013年2月、海鳥社(福岡市)から著書『ドン・ジョアン有馬晴信』出版の運びとなった。

註2】…『鹿児島県史料旧記雑録後編・五』(1985年鹿児島県歴史資料センター黎明館発行)所載、883頁。江戸家老伊勢兵部少輔貞昌の「極月七日」付け「種子島左近大夫様人々宛」書簡。ただし同黎明館がこの書状の年号について「寛永十二年乙亥」と(仮定)したのは、『種子島氏底本』では「寛永九年」となっており、再考を要す。本稿で後述する。

註3】…茂野幽考著『日南切支丹史』(1951年刊)181-182頁。『種子島家譜』「寛永15年2月16日」の条。

註4】…林銑吉編『島原半島史・上巻』(1954年・長崎県南高来郡市教育会発行)457頁。

註5】…『國乗遺聞』は有馬家第21代譽純の時代、寛政9年(1797)に編纂に着手され、文化8年(1811)に完成した有馬氏家系継承の記録書10巻。

2022年11月7日月曜日

カタリイナ永俊①

 ■1624年度イエズス会日本年報

 慶長18年臘月23日(西暦1624年2月1日)徳川幕府が発布したキリスト教禁止令「排吉利支丹文」は、元和年間に入って徹底され、同5年(1619)京都の鴨川六条河原で52人が火炙り刑。同8年(1622)には長崎の西坂刑場で55人が火炙りと斬首刑に処せられ、翌元和9年(1623)には江戸品川の札の辻で50人が同じく火刑によって殺された。それは将軍秀忠の大名に対する暗黙の指令であり、これを受けて全国各地でキリシタンの捕縛・処刑が相次いだ。キリシタン信者が公然とその信仰を表白できない時代であった。

 ところが薩摩国鹿児島藩に、それでもキリシタン信仰を敢然と公言して憚らない女性がいた。カタリイナ永俊(1575-1649)である。彼女について多くを語っていないイエズス会文書が、「1624年度日本年報」で、珍しくその状況を詳しく伝えている。家老職であったカタリイナの娘婿(喜入忠政)が度々、使いの者を遣ってカタリイナの信仰を糺してきたので、煩わしく思ったカタリイナは自ら家老たちの前に出向き、「自分はキリシタンである。どんな理由があろうとキリストに対する信仰を決して棄てようとは思わない。」―そのように断言したというのだ。以下に原文を記す。

 「薩摩でキリシタンの中心になっていたのが、その国の君主(島津家久)の姑であるカタリイナという名の女性で、彼女は熱心に説いて回って聖なる信仰を弘めていた。彼女は挑発を受けたことが二度あった。一度目は仏僧たちからで、彼らは様々な迷信や祈祷の札を持ち出して、彼らの戒律に彼女を引き込もうとした。二度目は、江戸で迫害が起こっていた時期に、彼女がキリシタンであるかを知るために、彼女の娘婿によって遣わされた者たちによってである。最初の時は簡単にそれに打ち勝って、彼らを断固として追い返した。二度目には方々から多くの使者に押し掛けられるのが煩わしくて、彼女の娘婿がこの国の高い地位にある多くの者たちと一緒にいることを確かめると、彼を訪ねに出向いて、皆のいる前で臆することなく、自分はキリシタンであり、どのような理由があろうともキリストに対する信仰を決して棄てようとは思わないと言った。すると異教徒である娘婿もそこに居合わせた他のすべての者たちも、女性にそのような大きな勇気のあることに驚嘆し、それ以上彼女を煩わせることは止めてしまった。(註1)

 レオン・パジェスは『日本切支丹宗門史』の「1624年」の項で、「薩摩では、大名の義母カタリイナはあらゆる懇願に耳をかさなかった。聟(むこ=娘婿)は彼女の思うままに任せていた。」と、「日本年報」を要約して記している。ここに出てくる「聟」「娘婿」は、カタリイナの連れ子・妙身(実は前夫・小西行長との間の娘)の夫・喜入忠政(鹿籠の領主=島津藩大家老)である。カタリイナにはもう一人「娘婿」がいる。島津忠清との間に生まれた娘・桂安の夫・島津家久(鹿児島藩初代藩主)その人である。藩主家久から言えばカタリイナは夫人の母(姑)になる。宣教師がこの年報で言うカタリイナを挑発した「娘婿」は、文意から判断して家老職の喜入忠政であるが、彼にその旨を指示したのはもう一人の「娘婿」すなわち藩主・島津家久であったようだ。

 家老はもとより藩主もカタリイナのキリシタン信仰を「思うままに任せ」ざるをえなかったという、その女性(1624年当時46歳)は、たしかに普通の女性ではない。地位・立場からして大名に匹敵するような系譜的背景を持った人物であった、と見なければならない。(つづく)

【写真】崇伝によって起草された「排吉利支丹文」冒頭部分(毛利家文庫)

 【註1】…結城了悟氏は著書『鹿児島のキリシタン』(1975年初版、1987年改訂版)で、イエズス会が鹿児島のカタリイナについて記録したのはただ二つだけであるとして、「1616年、マテウス・デ・コウロスによって書かれた年報書簡」(長崎・1617年2月22日発信、Jap-Sin 58. 437-38)とともに「1624年の年報書簡」を紹介している。後者の「1624年の年報書簡」は、筆者が今回掲げた「1625年3月28日付、マカオ発信、ジョアン・R・ジランのイエズス会総長宛、1624年度日本年報」とは異なる別文「ジョアン・R・ジラム、マカオ・1625年3月18日発信、Jap-Sin 58. 437-38. 344-344v;460v.」である。要約文となっている。


2022年6月5日日曜日

きりしたん作法で解く島原の乱⑤

 ■最期の日「1638年4月11日」

 キリスト教禁止令が敷かれた徳川幕府政権下で、「転び」から「立上り」、キリスト教徒に戻った天草四郎らキリシタンたちがそのまま生き続けることはできない。それゆえ、彼らがすべての償いの行為をキリシタン作法によって成し終えたその日―すなわち1638年4月11日(復活祭)は、同時にこの世との決別の日・死ぬ日でもあった。

 司祭・四郎が「(和暦)2月朔日」付で通達した『四郎法度書』(と称される文書)の中で、「現世には一旦の事と申し候中に、此城内の人数(人々)は弥(いよいよ)みじかき様に存じ候…」と言ったのは、それから27日後に訪れる〃死の日〃を想定してのことであった。ーと言うより、「立上り」の行動をする当初から彼らは死を覚悟していた(註1)。

攻撃ではなく防衛―「ふせぎ申したる分に候」

 定められた「死の日=復活祭」以前の段階で、たとえば寛永14年12月10日、同12月20日、寛永15年1月1日に幕府軍から攻撃を仕掛けられたとき、彼らが激しく抵抗したのは何故か。それは、「立上り」のためのキリシタンの作法「ゆるしの秘蹟」を終えていなかったからに他ならない。その場合の抵抗は防衛であって攻撃ではない。矢文の言葉を借りて言えば、「島原天草両所の儀、(幕府軍が)御取懸り候に付、ふせぎ申したる分に候」、「一度として此方より仕掛け申したる儀、御座なく候。天草島原両所とも、御軍勢をもって御踏み殺し候の故、至極迷惑(し)防ぎ申したる分に候」であった。

 加えて彼らは「此宗旨に敵をなす輩は、身命を捨てふせぎ候はで叶わず」(=神のみ旨に敵対し攻撃してくる者に対しては、命を捨てて防衛しなければならない)とも言っている(註2)。「ふせぐ」というのは「守る」という行為である。キリスト教徒はその行為に「身命を捨てる」、つまり「命をかけて守る」。これはキリスト・イエスが「人がその友のために自分の命をすてること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章13節)と説く隣人愛に依拠するものであった(註3)。四郎が償いの行為として「おらしよ(祈り)、ぜじゅん(断食)、じしぴりいな(鞭打ち行)」に加え「敵をふせぐ手立」としての「武具の嗜(たしなみ)に念を入れること」を指示したのは、意外に思うかもしれないが、聖書の教えに基づくものであった。

 この点に関して、中世カトリック神学が殉教(マルチル)の三要素の一つに無抵抗であることを挙げたのは、いかなる聖書的根拠に基づくものなのか、究明されなければならない(註4)。なぜなら、原城に集った3万7千余人がキリスト教の宗教的行為によって餓死または幕府軍によって殺された―殉教者であった―にもかかわらず、カトリックが定めるマルチルの定義から外れるとして、これを殉教者として認めなかった経緯があるからである。

「こころよく」死すべし

 実際、彼らは「立上り」のキリシタン作法を成し終えた後、「原城の門を開け」て幕府軍を入れ、死の旅路に就いた(註5)。弱者である老人や子供、そして友のため死力を尽くしたことであり、そうして「死ぬ」ことはみこころであった。敢えて言えば、立ち帰ったキリシタンとして如何にキリシタンらしく死ぬかが問われたのであり、この点に関して司祭・四郎は「快く(こころよく)勝負を決すべし」と言っている(註6)。「こころよく」とは、「いやな顔をしないで、うれしく、楽しく」という意味である。

 信仰の程度は人により異なるので、このように〃喜んで〃死ぬことができたかどうか。幕府軍側の目撃者の一人・松平信綱が、「剰(あまつさ)へ童女に至るまで死を喜び斬罪を蒙る。是れ平生人心の致す所に非ず。彼の宗門浸々たる所以(ゆえん)なり」と記録したのは事実である(註7)。他にも「こころよく」死んだ状況を思わせる記録がある。

 ・「丸裸になり、持ち道具を捨て〃首を切られ候へ〃と申し候」(『佐野弥七左衛門覚書』)/「敵(キリシタン)草臥、大方働く事なし」(『嶋原一揆松倉記』)/「皆やみやみとぞ討たれける。…或はむざんに討たれて死するもあり。」(『島原記』)。「やみやみ」とは「わけなく、むざむざ、みすみす」の意味。「むざん」とは「無慙」、「僧が罪を犯しながら恥じるところのないこと」を指す(古語辞典)。

 もとより彼らは、償いの行(ぎょう)として断食をしていたし、最後には食糧も尽き、体力は限界状況に達していた。ほとんどが無抵抗のまま「やみやみと」「むざんに討たれ」殺されたのが事実であった。

幕府の責任回避、および「味方討ち」隠蔽のための一揆説

 それでは何故、徳川幕府はこれを一揆とし、幕府軍諸藩は戦いの構図でこれを記録したのだろうか。その答えは、そうしなければならない訳が幕府側にあったからである。理由は二つある。ひとつは、キリスト教禁止令を発布してキリスト教信教の自由を認めなかった幕府側のこの事件に対する責任を回避し、松倉氏に転嫁するためであった。すなわち、この事件が「転び」の「立上り(再改宗)」であるとするなら、根本の原因はキリシタンを強制改宗させて仏教徒にした幕府の禁教令にあったはずで、幕府はこの責任を負わなければならない立場にあった。そこで幕府がこれを回避・転嫁するため、事件直後に打ち出したのが松倉悪政による一揆説であった。それはまた、動員された諸藩側にとっても好都合であった。手柄功名の材料にすることができたからである。

 他の一つの理由は、味方討ち(同士討ち)による不名誉な犠牲を隠蔽するためである。これは手柄功名にならないばかりか軍令違反の失態であり、侍として恥ずべきこと、不名誉なこと、さらには処分・改易の材料ともなるべきものであったため、邦文史料から意図的に外された状況がある。ただ、第三者的立場にあった平戸オランダ商館長クーケバッケルがその事実をありのまま記録しているので、ここに紹介する。

 ・【寛永14年12月20日、寛永15年1月1日の幕府軍攻撃のとき】…我等が船を出す迄に合戦二度ありつるが、味方の士討死の数5708人なり。味方の同士討にて死人疵人数多(あまた)あり(註8)。/【寛永15年2月27-28日総攻撃のとき】…前方の鍋島公と細川公の前後の争いあり。…依て大いに混雑して味方の人々同士討にて死す(註9)。

 この事件に動員された諸藩の邦文史料の中にも、注意深く読んでいくと、かすかに同士討ち・仲間討ちの記事を見つけることが出来る。『水野家島原記』に「(正月朔日の城攻の時)諸勢塀下へかかり候時、後勢より鉄砲放ち候て、手負死人過半、味方討ちのよし」と。また、有馬藩の史書『國乗遺聞・巻之八』-「兵戦第十八」に、「(寛永15年2月27日惣乗のとき)彼の者(寺沢の使番)申しけるは…後口より鉄砲討かくべしと申さる」とあるが、これも希釈された表現の味方討ちの記録である。

おわりに

 繰り返すが最期の日、キリシタンたちのほとんどが戦いの道具を捨て、動くことなく「草臥」していた。中には焼け落ちた火の中に入り、死んでいく女たちもいた(註10)。彼らは「転び」の罪を悔い、神にわびて償いをなし、もとより「死」を覚悟して家を焼き、故郷を捨てて原城に出てきた人々であった。そこには女・老人・子供たちもいた。壮健なる侍たちが鉄砲で撃ち、刀で首を切り殺すような相手ではなかったのだ。戦いになる状況は何もなかった。あったのは幕府軍諸藩が武功を争う激戦だけであった。

 島原の乱一揆説は、根本的に見直されなければならない。この事件は一揆などではない。転びキリシタンたちが再改宗して元のキリシタンに戻る、「きりしたんの作法」に基づく純粋な信仰行為であり、宗教行為であった。(おわり)

【写真】…有明海海上から見る原城風景(昭和初期)

註1】…永積洋子著『平戸オランダ商館の日記・第四輯』(1970・岩波書店)「1637年12月17日」付の項に、「有馬領の住人、或いは農民の大部分が…叛乱を起こし、…『大勢が長い間かかって死ぬよりは、一度に死のう』と決議された。」とある(同書40頁)。

註2】…「…右の仕合せ、きりしたんの作法に候。御不審可思召候得共、此宗旨に敵をなす輩ハ、身命を捨ふせぎ候ハて不叶」(城中より御陣中への矢文)。古語「不叶(かなはず)」はこの場合、「~しなくてはならない」の意味である(古語辞典)。

註3】…「Greater love hath no man than this, that a man lay down his life for his friends.」 ST.JOHN15-13 

註4】…姉崎正治著『切支丹宗門の迫害と潜伏』(1925・同文社刊)掲載の『マルチリヨの心得』に、マルチル(殉教)の説明として、①死ぬこと、②成敗を辞退せず心能く(こころよく=快く)堪忍致して受くること、③死罪の題目がC(キリシタン)なりとて成敗されること、の三点を挙げている。

註5】…「…叶はじとや思ひけん、門を開き…」(『吉利支丹物語』)、「四郎大夫…〃一向に門を開き、突き出て勝負を快く決し候様に致すべし〃と申しける」(『寛永平塞録』)。

註6】…細川藩記録『寛永平塞録』に、「四郎大夫…籠城百日に及び候はば、城内の糧乏しき事眼前にあり。一向に門を開き、突き出て勝負を快く決し候様に致すべしと申しける。」とある。

註7】…松平忠綱筆『嶋原天草日記』「…賊徒の将四郎一類、悉く刀殺せらる。その外、生捕斬罪せしむ。剰へ童女の輩に至り死を喜び斬罪を蒙る。是、平生人心の致す所に非ず。彼の宗門駸駸たる所以なり」(日屋根安定編著『吉利支丹文庫第三輯・嶋原天草日記、他四編』1926年刊、53頁)。1998年10月18日、原城のある南有馬町(現・南島原市)で開催されたシンポジウム『原城発掘』で結城了悟氏(元長崎26聖人記念館館長)が最初にこれを取り上げ発表した。

註8】…これは、平戸オランダ商館長ニコラス・クーケバッケルの日記から19世紀はじめ、オランダ商館長ヘンドリック・ヅーフが島原の乱の関係記事を抽出編集して出島乙名・末次独笑(忠介)に与えた原文を、当時のオランダ通詞・吉雄如淵が翻訳した『天馬異聞』の記事である。この部分の原文は『平戸オランダ商館長日記』(東大史料編纂所・昭和52年)の〔1638年3月13日〕付記事にある。

註9】…同じく『天馬異聞』に依る。原文は『平戸オランダ商館長日記』の〔1638年6月〕付、〔平戸オランダ商館長ニコラス・クーケバッケル書翰〕(昭和41年吉川弘文館刊「長崎縣史史料編第三」の〔1638年11月19日付、平戸発バタビアのインド総督におくった手紙〕にある。

註10】…細川家熊本藩史料ー本丸にて細川勢が目撃したキリシタンたちの自害について「小袖を手にかけ、焼けている燠(おき)を上へ押し上げ、その中に入って自害し、また、ある者は子供をその中に押し込み、自分は上へ上がって死ぬる者も大勢いた。忠利は〃中々奇特なる下々の死、言語を絶し候〃と、かれらの壮絶な死に様に賞賛の声を上げている(山本博文著『江戸城の宮廷政治』(1993・読売新聞社)257-258頁)。史料名「三月朔日忠利披露状」。鍋島家佐賀藩史料『元茂公御年譜七』にも「女・童部(わらべ)は手に手を取り組み、悉く猛火の中へ飛入々々焦れ死す。其臭気四方に薫じて人皆鼻を掩ふばかり也」とある。