2024年7月7日日曜日

佐伯・天徳寺の大友宗麟墓碑④

 ■薬師堂と宗麟墓碑の配置

 臨済宗妙心寺派天徳寺(川野泰斉住職)には大友宗麟ゆかりの遺跡として宗麟墓碑と、もう一つ薬師堂がある。これについて増村氏は1954年(昭和29)、稿「大友宗麟の墳墓に関する研究」で、次のように説明している。

 「宗麟の近侍山田某、小野某と寺社奉行役であった津崎某等7人の者は、相謀って宗麟の墓石と宗麟が生前愛蔵した仏像一体を潜かに暗夜に乗じて…持ち去った。彼ら7人が落ちて行った先は佐伯市長谷の現在の天徳寺のある台地だった。

 「宗麟の墓石を…持ち去った」については既に説明したように、宗麟の墓碑銘が刻まれていないのでそれと断言することはできない(ただし、破壊された津久見宗麟墓地の一部の墓石であったとは考えられる)。他のひとつ「宗麟が生前愛蔵した仏像」とは、こんにち同寺の薬師堂に祀られている「正親町天皇から拝受した(とされる)薬師如来像」である。

 薬師如来像を祀る薬師堂は、同寺の長い一直線の参道を登り、山門をくぐって右手に位置し、その裏側奥に大友宗麟の墓碑が佇んでいる。本堂と薬師堂、宗麟墓碑の位置関係を図示すると以下のようである。

天徳寺堂宇配置図(筆者取材帳スケッチ)

 同寺によると、年一回の例祭が1月8日にあり、檀信徒たちは本堂に入るより先に薬師堂に参拝し、供物を上げ、しかる後に左手庫裡の廊下を通って本堂に至るという。すなわち同寺では宗麟ゆかりの薬師仏が本堂の釈迦如来と同じく―もしくはそれ以上に―重要視されているのである。この参拝順路について川野住職は「昔からそうであった」と言われるが、その謎は、あるいは薬師堂に座してみると解るかもしれない。薬師仏を拝するその向こうに大友宗麟の墓碑が位置するのである(註1)。ここに至って、檀家の墓碑のほとんどが山麓南向きであるのに対し、宗麟墓碑のみが何故、薬師堂を向いて据えられているのか、納得したことであった。

写真】天徳寺境内―左手が本堂・庫裡、正面が薬師堂、その向こうに宗麟墓碑が位置する。


あとがき―キリシタン風土の中で

 その他、調査の過程で天徳寺の裏山に金比羅社が、その北麓の某寺院には準提観音が祀られていることも判明した。「金比羅さん(コンピラサン)」はかくれキリシタンたちの信仰所作「コンビサン」を、「準提」観音は信仰対象「提宇主(デイウス)」を隠す神仏とされるものである(註2)。筆者は禁教下の「かくれのかたち(形態)」の事例として調査を手掛けたことがあり、興味を持った。それらは周辺地域に分布する比較的小さな托鉢修道会系伏碑型キリシタン墓碑とともに、キリシタン寺・天徳寺と宗麟墓碑を取り巻くキリシタン的風土を形成するものである。

 増村氏が論考「大友宗麟の墳墓に関する研究」を1954年に発表されて今年(2024年)で70年になる。しかし、同寺の伝承・遺跡・遺物について同論考以上の調査は、これまでなされないままであった。本稿が再検証、再認識の契機になれば幸いである。(おわり) 

                           2024年水無月、72歳識す。

 

 註1…キリシタン大名を祀る仏堂の「かくれ」の工夫として、この種の配置は久留米城主であったシモン毛利秀包(1566-1601、夫人は大友宗麟の娘マセンシア)の位牌を祀る下関市滝部の玄済寺でも確認される。直線の長い参道の正面に本堂があって、その真後ろの裏山に秀包の墓碑がある。

 註2…文化年間、天草で発覚したかくれキリシタンたちも「準提観音」を所持していた(『天草吟味方控(解読本)』2001年・しまばら古文書を読む会発行、170頁)。キリシタンの神「デイウス(デウス)」は当時「提宇主」と表記された。準提観音の「準提」は正しくは「準」であるが、これを「準提」と表記することで「提宇主(デウス)に準じる」すなわち「神に従う」というかくれキリシタンの信心を仮託した。「金比羅さん―コンヒサン」については『ありあけの歴史と風土・第8号』(1992年・有明の歴史を語る会刊)掲載の拙稿「コンピサンとハライソと〈かくれのかたち〉」参照。


2024年7月4日木曜日

佐伯・天徳寺の大友宗麟墓碑③

 キリシタン寺・天徳寺のこと

 次にキリシタン寺・天徳寺について、その創立と破却、そして再建にいたる経緯を見ていきたい。

津久見天徳寺の建立

 大友宗麟が津久見を終の棲家と定め、仏教寺院を廃棄して(1582年)、礼拝堂を伴う私邸を建てたのは1583年(天正11)であった。イエズス会「1583年度年報」に、「…今、新たに立派な家数軒を建て、その邸内に美しい礼拝堂もしくは小聖堂を設けた」とある。そのころ、ジュリア夫人を伴い臼杵城から津久見の私邸に移り住んだ。

 その後、宗麟はキリスト教会の建設にも取りかかり、私邸からあまり遠くない場所に完成させた。その竣工の時期は1584年(天正12)暮れから翌1585年(天正13)はじめにかけてのことであったと思われる(註1)。「天徳寺」というのは、宗麟が津久見に立てたキリスト教会の名称である。イエズス会は日本布教に関して当初、日本文化順応方針を採用して宣教活動を展開した。そのため、キリスト教会も「寺」と呼ばれ、「吉利支寺」「南蛮寺」と総称された。津久見の天徳寺も同様であった。

天徳寺の破壊

 津久見のキリスト教会・天徳寺はその後、29年ほど同地に存在した。ところが徳川時代に入って1614年1月(慶長13年12月)、排吉利支丹文(キリスト教禁止令)が発布され、これにより長崎、京都をはじめ全国のキリスト教関連の施設および墓地が破壊された。津久見の天徳寺が宗麟邸の庭にあった墓碑(霊廟)とともに焼き討ちされたのもこの頃である。津久見の『解脱闇寺年代記』および『大友松野系図』に、「慶長19年(1614)2月2日」(西暦1614年3月12日)のこととして「宗麟の仏式墓は野火のために焼け、礎石を残すのみとなった」とあるのは、これを裏付けるものである(註2)

その後の天徳寺

 1614年(慶長19)以降、日本のキリシタン史は潜伏地下活動の時代に入る。豊後国内でなおも宣教師を匿い、地下宣教活動を組織的に展開したのは毛利高政領の佐伯地方と、中川氏が治める竹田地域の「なんぐん」と称された一帯であった。「日本の改宗においてデウス(神)に次いで最も有力な手立てであった」と宣教師が評した大友宗麟は、豊後国のキリシタンたちにとっては「慈父」であり「支柱」であった。その恩顧を忘れない同国キリシタン信者が1614年、宗麟の墓碑が破壊された時、遺骨を拾い「聖遺物」としなかっただろうか。そして、徳川幕府のキリシタン迫害が過酷を極めた元和時代を過ぎ、寛永年間に入った頃、宗麟の遺骨を隠し持った信者たちが「かくれのキリシタン大名」毛利高政の領内・佐伯堅田下城の金比羅山南麓に秘かに墓碑を造り、そこに遺骨を埋葬した。―これが今日、佐伯堅田に現存する臨済宗妙心寺派天徳寺のはじまりである。同寺の史料によると「1636年(寛永13)、第2世百界榮三禅師谷川臨川庵、3月開山」とあるので、同年、堅田に移転して堂宇を新たに整えたと思われる。表向き仏教寺院ではあるが、実は「かくれ信者」たちのキリシタン寺であった。

佐伯天徳寺史料を解読する

 筆者は今、天徳寺の歴史を某史料によって記している。それは2020年6月に同寺を訪れた際、頂戴したものである。これをもとに以下、同寺の創建、破壊、そして再建に至る経緯をもう少し詳しく辿ってみたい。


 《史料その1》…「天正13乙酉 當山創立/開山章菴和尚禅師、18年丑12月10日示寂」とある、年表史料の断簡である。「開山章菴和尚禅師」とは、増村氏が稿「大友宗麟の墳墓に関する研究」(1954年『大分縣地方史・創刊号』掲載)で述べている通り、大友宗麟を指すものである。禁教時代の事ゆえ、キリシタン大名の名前を出すことができなかったため、便宜上そのように表記したのであった。「天正13乙酉、當山創立」というのは、先ほど触れたように津久見の天徳寺が「天正13年(1585)」に建立されたことを述べている。問題は下方に記された「12月10日示寂」である。これは一見すると、「開山章菴和尚禅師」すなわち大友宗麟が「天正13年(1585)」に「示寂(死去)」した期日のように見えるが、そうであれば「(天正15年)5月23日」でなければならない。これを解く鍵は、右肩に小さく添えられた「18年丑」にあるようだ。和暦で「天正13年乙酉」以後の「18年丑」を繰ると、「慶長18年癸丑」が該当する。つまりは「慶長18年(1613)12月10日、示寂」したと記されているのであった。

 この年月日は、徳川家康がキリスト教禁止令「排吉利支丹文」を全国に発令した時期と一致する。この日を期してキリシタンの教会・墓地の破壊が始まり、日本のキリシタン史が暗転した史実を重ねてみるとき、それは津久見のキリシタン寺・天徳寺が焼却破壊された史実を伝えるものであったことが分かる。つまりは「章菴和尚禅師」の「示寂」死去ではなく、「天徳寺」の「示寂」破壊を意味するものであった。実際に同天徳寺が焼き討ちされたのは「慶長19年(1614)2月2日」(『解脱闇寺年代記』)であるのに、それより1ヶ月前の幕府の禁教令発布日を「示寂」としているところに、キリシタンの心理が読み取れるであろう。彼らにとって禁教令発令はそれほどに痛く、重大な出来事であったのだ。

 なお、筆跡が異なる字で「住職8年在住」とあるのは、開山年「天正6年(1578)」(後述)から数えて示寂年を「天正13年(1585)」とした、読み間違いによる後世の書き込みである。


 《史料その2》…同寺から頂いたもう一つの史料に、活字で清書された年表(これは前掲史料を含む同一史料をもとに現住職が作成されたものと思われる)がある。その冒頭に「1578年(天正6)、天徳寺を開山、章菴文公大和尚」とあることにも触れなければならない。「開山」とは「寺院を創始すること」または「寺院の創始者」を言うので、この場合、「章菴文公和尚」大友宗麟が天徳寺を開いたことを指す。その「開山」の年号を「天正6年(1578)」としているのは、大友宗麟が洗礼を受けてキリシタン信者となった年号(宗麟の受洗日=西暦1578年8月28日)である。これによって「天徳寺」は、宗麟が津久見に立てたキリスト教会を指すと同時に、キリシタンとなった大友宗麟自身を表すものでもあったことが判明する(註3)

 ここまで津久見の天徳寺が辿った歴史を見てきたが、同史料にはその後、天徳寺が佐伯に再建されたことも記されている。「1636年(寛永13)第2世百界榮三禅師 谷川臨川菴 3月開山」である。再び「開山」とあるのは、津久見の天徳寺が破却されたのを受け、佐伯堅田下城に「再建」されたという意味である。時代は禁教令が敷かれた徳川政権下、かつてはキリシタン寺(キリスト教会)であった天徳寺は、ここから表向き臨済宗妙心寺派の仏教寺院としての歴史が綴られることになる。かくれのキリシタン寺である。その中で、「大友宗麟のお骨を津久見より移し、天徳寺に埋葬するとの伝」は、留意すべきことと思われる。それは、佐伯天徳寺が藩政時代を通じて大友宗麟の霊を祀る廟所として存在したことをある程度、裏付けてくれるものであるからだ。その「お骨」は、あの宗麟墓碑の地下に眠っているものと思われる。

天徳寺・大友宗麟墓碑の全景(2024年6月28日撮影)

 「天徳寺」とは述べたように本来、大友宗麟が津久見に建立したキリシタン寺の名称であった。佐伯の天徳寺は、以上検証してきた通り、津久見天徳寺の歴史を継承するものであり、それだからこそ境内に大友宗麟の墓碑が半ば隠された格好で祀られてきたのであった。天徳寺と大友宗麟墓碑―両者は切れない縁で結ばれている。そして、あの天正の時代から4世紀余りを過ぎた今日に至るまで、豊後国の一角に佇んでいる。(つづく)

天徳寺事歴と大友宗麟キリシタン史の対照表


【註1】…「1585年8月10日付、ルイス・フロイスの書簡」に、1584年12月、宣教師と二人のイルマンが津久見に出かけ、降誕祭を催したことが記されている。

【註2】渡辺澄夫著『キリシタン大名大友宗麟』(1978・大分合同新聞社発行)311頁

【註3】宗麟は晩年、「天徳寺左衛門入道」と名乗った。『大分県地方史第6号』(1996)増村隆也「大友宗麟の墳墓に関する研究―続報―」。