2016年1月3日日曜日

「四郎法度書」に見る「転び」の償い―島原の乱を解く⑥

 原城に集結した島原・天草の「立上り」キリシタン約3万7千人が、幕府軍12万によって責め落とされる寛永15年2月28日(1638年4月12日)までの約3ヶ月間、彼らは如何に過ごしたのだろうか。一般には、戦いに備えたと解されているが、そうではなかったようだ。「朝夕、昼夜2,3度宛て、大将(天草)四郎が…法儀のすすめ(ミサ説教)」を執りおこない(『嶋原記』)、キリシタンたちも種々の信仰所作に勤しんでいた。
 司祭役・天草(益田)四郎が彼らに訓示した「四郎法度書(しろうはっとしょ)」(細川家史料)によると、「おらしよ・ぜじゆん・じしひりいな」(祈り・断食・鞭打ち)等の信仰所作の他に、「城内の普請(ふしん=造営・修理)」、「ゑれじよ(敵)ふせぐ手立、成程(なるほど=できるかぎり)武具の嗜(たしなみ)御念を入れらるべき事」などが記されている。
 城内の普請も、また武具の嗜みも、それは幕府軍と戦うためではなく、「ゑれじよ(幕府軍)」の攻撃によって信仰の諸所作が妨害されるのを「防ぐ手立て」としてであり、それらは、デウスの神の「格別の御慈悲」に対するキリシタンの「御奉公」―この場合、「キリシタン信仰者としての善のおこない」を意味する―であると言っていることに注目したい。
 このうち「おらしよ」については、とくに「前々よりの御後悔」と、「日々の御礼おらしよ」が示されている。「御後悔」とは「御後悔のおらしよ」すなわち転びキリシタンがもっとも重要視して唱えた「コンチリサンのオラショ(痛悔の祈り)」であり、「御礼のおらしよ」とは「さるべれじいな」(註1)であった。

 これらの信仰所作は、同史料にある「今程(いまほど)くわれすまの内」―いまはカレスマ(Quaresma、四旬節)の時である―の言葉から分かるように、転びの罪を償う行為であったと判断される(註2)。
 ―つまりは、「転び」が「立上る」ための「きりしたんの作法」であった。
 ちなみに、「ゆるしの秘蹟」は司祭に罪を告白(Confessio)するだけでは成立しない。痛悔(Contritio)と、償いの行為(Satisfactio)と、最後に司祭のゆるしの宣言(Absoltio)をもって完結する。

 彼らが真冬の原城に籠もり、「寒天の雪霜を凌ぎ」(矢文)ながら過ごした3ヶ月は、キリストの十字架死を記念する四旬節・聖週間にあわせ、転びの償いをするためであったことが理解されよう。同年(1638年)の「悲しみ節の上がり」・復活節(イースター)は4月11日(和暦2月27日)。この日、城門が開かれ、翌4月12日「和暦2月28日」に落城、全員の「首が切られた」。

 ※1…「さるべれじいな」の祈りに、「御礼をなし奉る」の言葉が2回登場する。よって、キリシタンたちが「日々の御礼のおらしよ」と称した祈りは、「さるべれじいな」を指すものと思われる。
 ※2…Cuaresma(四旬節)は、キリスト教暦で灰の水曜日から復活祭の8日前の土曜日までを言う。この間の日曜日を省いた週日は40日となる。日本のキリシタンはこれを「悲しみ節」と言った。キリストの死去前の苦難を想起して、祈り、断食、苦業によって罪を悔い改め、償いに励みながらキリストの復活祭を待ち望む期間とされている。
「四郎法度書」末尾部分。「益田四郎/ふらんしすこ」とある。

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