2025年6月5日木曜日

幕府軍の攻撃に武器を持って防戦した「島原の乱」キリシタン

 

■はじめに

 島原の乱事件(1638年)で幕府軍と交わした籠城キリシタンの矢文に、「此の宗旨に敵をなす輩は、身命を捨て防ぎ候はで叶わず」と記されたものがある。意味が取りにくいくだりである。同矢文は島原の乱を紹介する論文、読み物等で引用されることが多いが、この部分について解説したものは見当たらない。原文は熊本細川藩の記録『綿考輯録・巻四三』にも収録されているので、一般にはこれによって確認することができる。読み下しで紹介すると、次のようになる。

 

 【読み下し文】… 城中より申し上げたき儀これ有るにおいては、聞こし召され候由候間、重ねて申し上げ候。誠にこの度、下々として嶋原天草両所の儀、御取り掛かり候につき、ふせぎ申したる分に候。国郡など望み申す儀、少しも御座なく候。宗門に御かまい御座なく候へば、存分これなく候。籠城の儀も、しきりに御取り掛かり成られ候につき、此のごとく御座候。右の仕合わせ、きりしたんの作法に候。御不審に思し召さるべく候へども、此の宗旨に敵をなす輩は身命をすてふせぎ候はで叶わず。あらたなる証拠、度々御座候につき、此のごとくに候。か様の人をぼんぷ(凡夫)として罷り成ることに候や。兎に角、我々御ふみつぶし候の後、御合点成らるべく候哉。

 御陣中            城中より

 

■毛利家文庫収録の矢文

 筆者は2010年頃、萩毛利藩の歴史資料『毛利家文庫』の中に島原の乱に関する複数の史料があることを突き止め、調査したことがある(註1。その中にも籠城キリシタンの矢文2通が収録されており、うち1通がそれであった(註2。毛利藩は「嶋原陣事件」の際、国司下総守が率いる鉄砲隊と、他に使者として乃美豊後守元宜、志道兵庫頭、原権左衛門尉元勝らを派遣した。原権左衛門元勝は現場で直接取材し収拾した史料をもとに、随時の出来事を記録した『嶋原陣日記』を遺している(註3。これは同事件を現地で記録した従軍日記とも言える一次史料で、きわめて重要な史料であるが、筆者はその紹介事例、引用事例を見たことがない。

 今回、毛利家文庫史料を取り上げるのは、冒頭に記したくだり「此の宗旨に敵をなす輩は身命をすてふせぎ候はで叶わず」の意味を究明する上で、欠かせないものであったからである。すなわち一般に周知される矢文と、毛利家文庫のそれは同一史料でありながら、異なる箇所があるのだ。

 

 【細川藩史料】…「…右之仕合きりしたんのさほうニ候、御不審ニ可被思召候へ共、此宗旨ニ敵をなす輩ハ身命を捨ふせき候ハで不叶…」

 【毛利家文庫史料】…「右之仕合きりしたん之作法には御不審ニ可被思召候ヘ共、此宗旨ニ敵をなす輩ハ身命をすてふせき候ハで不叶…」

 

 両者の違いは、「候」とされる所が、毛利家文庫史料では「は」となっていることである。「候」の場合、ここで文章が切れるが、「は」とした場合、次の文節「御不審に思し召さるべく候へど」に繋がり、「不審」であることの主語が「きりしたんの作法」であることが分かる。必然、本稿の問題とする「此の宗旨に敵をなす輩は、身命を捨て、防ぎ候はで叶わず」に係るので、その意味が割り出されるであろう。

 以下に、毛利家文庫収録の矢文の読み下し全文と、筆者がこれを口語体で意訳したものを掲げる。

 

 【毛利家文庫所収矢文読み下し文】…城中より申し上げたき儀これ有るにおいては、聞こし召され候由候間、重ねて申し上げ候。この度、下々として嶋原天草両所の儀、御取り掛かり候につき、防ぎ申したる分に候。国郡など望み申す儀、少しも御座なく候。宗門に御かまひ御座なく候へば、存分御座なく候。籠城の儀も、頻りに御取り掛かり成られ候につき、此のごとくに御座候。右の仕合わせ、きりしたんの作法には御不審に思し召さるべく候へども、宗旨に敵をなす輩は身命をすてふせぎ候はで叶わず(ぬ)あらたなる証拠、度々御座候につき、此のごとくに候。かようの人をぼんぷ(凡夫)として罷りなることに候や。兎に角、我々御ふみつぶし候の後、御がてん成らるべく候哉。

 御陣中            城中より

 

■口語体意訳文

 幕府方の矢文に、城中のキリシタン側から要望等があれば聞き入れてくださるとありましたので、再度、矢文をもって申し上げさせていただきます。

 今回、島原と天草の両所において起こしました私たちの一連の行動は、役人兵士たちが私たちの信仰行為を妨害し、攻撃を仕掛けて来ましたので、防戦したまでのことでした。田畑や領地、国が欲しいなどと要求しているのではありません。ただ、私たちが信仰するキリシタン宗を禁止しないで、自由にさせていただきたい。これが私たちの唯一の望みであります。

 こうして37千人が信仰のために原城に集結したこと、―(それはキリスト教禁令が敷かれて25年、「転び」の罪を犯してこれ以上この世で生きることが出来なくなりましたので、最後に悔い改めの行をして、みんなで一緒に死のうと決意したからでありますが)―、ここにも幕府の兵士たちが押し寄せて、しきりに攻撃を仕掛けて来ましたので、鉄砲・弓矢をもって防戦した次第です。

 攻撃に対して防戦するというような、こうした行動はキリシタンがすることではないのではないか、と疑問に思われるかもしれません。しかし、「この宗旨に敵をなす輩は、身命を捨て、防ぎ候はで叶わず」―、すなわち「キリスト教に敵対する者たちから攻撃を受けた場合、信徒たちは家族・仲間を守るために殉教覚悟で戦わなければならない」のです。これは私たちが新たに天から受けたお告げですが、一度ならず再三にわたって徴(しるし)が示されましたので、その指示に従って行動いたしました。

 このようにキリシタンとして信念を持って生きた私たちですが、世間は愚か者と言うことでしょう。とにかく、私たち全員を踏み殺した後に、事の真実を分かっていただけるのではないかと思います。

 幕府軍御陣中へ         原城のキリシタンより。

 

■防衛はキリスト教の教えか?

 島原の乱事件がキリシタンの殉教として認められない最大の理由は、彼らが武器を持って応戦したことであった。これについて彼らは、「自分たちから攻撃したことは一度もない。幕府役人兵が自分たちの宗教行為を禁止し、攻撃してきたので、防戦したまでだ」と述べている。そして、「防戦すること」は従来のキリスト教の教理からすると理解に苦しむことだろうが、それは「神からのお告げ」であった、とも述べている。これはカトリック教理に係る事柄であり、キリスト教神学の問題である。17世紀初めの日本において、3万7千人の農民キリシタンたちが、「攻撃を受けた時、仲間を守るため命を捨てて戦わなければならない」との啓示を受け、そのように生き、全員が「踏み殺された」史実があったことを記しておきたい。  (2025年6月5日記)

【※写真=毛利家文庫所収の籠城キリシタン矢文】

【註1】…20092月から201111月にかけて計6回、山口県文書館を訪れ、閲覧および写真複写を実施した。

【註2】…毛利県文庫史料番号「16叢書-68、嶋原陣之時書状覚書等写」。

【註3】…毛利家文庫史料番号「15文武-38、旌旗考引書」―「原権左衛門元勝 嶋原陣日記」。