「彼らは僅か一晩で何の抵抗もなく教えを捨てた。…彼らはロザリオ、聖遺物、御絵などをことごとく役人に引き渡し、彼らの名はみな日記niqiに書き入れられてゆきます。」(註1)。
また、フランシスコ会のフライ・セバスティアン・デ・サン・ペドロは1613年のこととして、「転び棄教した者は釈放し、その旨署名文書を出させた。そして、仏僧たちのうちの誰か、および彼らの宗派のうちのどれかに属する旨、記させた。」と、転び文書の作成とともに仏教信者に組み入れられた事実を報告している(註2)。
このような「転び」にかんする記録文書の提出および仏教諸宗派への半強制的組み入れは、後日、彼らが再びキリシタンに「立帰る」(立上る)際、当然問題とされることがらであった。
ドミニコ会のディエゴ・コリャード神父は、転びキリシタンに「ゆるしの秘蹟」を授けたとき、それを償うため、次のように指導をした。
「表面(うわむき)ばかりでもころぶ者が、それを言ひもどさいでならぬが、その分でござったか」(=表面的に転んだとしても、それを取り消さなければならないが、そのようにされたのか)。「その奉行のせられた事どもの日記は、どこにあるぞ。すなはち、それを持って上(のぼ)られたらば、その奉行へ文なりとも、使いを遣ってなりとも言いもどさいでは(ならぬ)」(=役人がなした事どもの転びの記録文書はどこにあるのか。その記録文書を持って引き上げたのなら、その役人に転びを取り消す手紙を出すか、使者を遣わして取り消さなければならない)(註3)。
日本人の転びキリシタンが立上りの行動を起こすとき、このような問題―転び手続きの証拠―を解決する義務があったのは言うまでもない。
転びキリシタンの立上り事件「島原の乱」(1637―38)において、彼らが領主の居城・島原城に押しかけたこと、寺社に放火したことは、一般には「一揆」反乱の行動と解されているが、そうではない。役所・島原城に転び証文を取り消す旨を告げる「言い戻し」の行動であり、寺社に保管されている転び証文を取り消し、焼き捨てる行動であった。
※註1…1876年、ホセ・デルガド・ガルシーア編『福者ホセ・サン・ハシント・サルバネスOP書簡・報告』40頁
※註2…1988年、高瀬弘一郎編、岩波書店『イエズス会と日本二』309頁
※註3…1957年、風間書房『コリャード懺悔録』13~14頁
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ディエゴ・コリャード編著「懺悔録」(部分) |