次に「ルイサ」にかんするいま一つの欧文史料を紹介し、ルイサがいかなる人物であったか、より詳しく見ていきたい。史料は、イエズス会による記録「1615・16年度年報」である(註)。
時は、徳川幕府によるキリスト教禁令が発布された直後のこと。これに触れると「当人のみならず家族全員の生命が奪われ、全財産が没収される」、という厳しい刑罰が課せられるにもかかわらず、「師としての宣教師を匿(かくま)い」、「貧しい暮らし」ではあったが「その食べ物を半分にしながら(宣教師を)養なおうとした」人々がいた。その例として「豊後の国のルイザ」について、宣教師は次のように述べている。
…この上なく深い慈悲の心を備えていたキリシタン、加賀山ディエゴ隼人の姉妹のルイザという名の身分の高い女性は、豊後の国で以前からキリシタンの世話に従事していた司祭の手助けをするために司祭の一人を新たに豊後へ派遣したことに対して、我らに感謝しようとして上長(イエズス会日本副管区長)に宛てた書状の中で、次のように、少しも女性的な点が見られない調子で述べている。
「越中殿〔豊前国および豊後の一部の領主、細川忠興〕は、ある書状により、都にいた一人の司祭が牢に入れられたことをお知りになり、(殿の周囲には)私どもを説得しようとする人々にこと欠いておられないためか、私どもが我が屋敷に匿っている伴天連様を長崎に送り返すようお求めになりました。しかしながら、我が夫イチノカミ(Ichinokamo、市正?)は、〃どのような迫害の嵐が吹き荒れようとも、これまでと異なることを行う必用は何一つない。なぜならば、自分は今後起こり得るあらゆる厳しい状況を予想したうえで、伴天連様を手元に置いているのであり、これからも置いておくであろう。と言うのも自分がこの伴天連様に対して責任を負っているからだ。もし、(内府の役人が)おせっかいにも何かを捜し出そうとしたとしても、自分は巧みに伴天連様を丁重に隠しておける。それにもかかわらず、仮に彼らが伴天連様を見つけ出したとしたら、その時こそ、たとえ伴天連様の命を守ることができないとしても、自分たちは伴天連様とともにデウス様が我らにお求めになっていることを終に成就することができる。それゆえ、我らが踏み留まっている限り、伴天連様は決して立ち去らない〃、とお答え申し上げた。…たとえどのような危険があろうとも、私どもは真心を込めて伴天連様にお仕えいたします。」これが、この身分の高い婦人の書状である。
この史料の監訳者は、著名なキリシタン研究家・松田毅一氏である。氏は別著『南蛮巡礼』(1967・朝日新聞社発行)において、いま一つ「1616年の豊後のルイサ」にかんする情報を提示している。記録が複数存在する理由は、「日本にいたバテレンたちはヨーロッパへ報告するのに3通ないし4通も同文の書類を作成した。1616(元和3)年の日本年報は、マテウス・デ・コーロスが執筆したが、…原文は、一つはローマのイエズス会文書館に、他はマドリーの王宮図書館に収蔵されている」(前掲書)からであるが、これは松田氏が別途に「豊後のルイサ」に関する記事として部分訳出されたものである。原文とともに著者の要約をはさみながら、次のように述べている。
…そのなか(筆者註=マテウス・デ・コーロスが執筆した「1616年度日本年報」のなか)の「豊後」の項に、地名を挙げていないが、「ルイサLuisaと称する高貴な一婦人は、自らの身分と家族について、大きい危険を冒し、自分の責任において、一人の司祭を扶養した。」…(中略)…という記事が紹介されている。…
(つづく)
〔註〕…「ロレンゾ・ポッツェ訳イエズス会総長宛、1615・16年度日本年報(ミラノ版、日本・シナ・ゴア・エティオピア年報3~84頁)」(1996・同朋社出版『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅱ期第2巻、219-221頁)
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