2018年6月8日金曜日

欧文史料で読み解く豊後宇目の「るいさ」④

 ■半田説への疑問②―墓碑と人物の不一致
 来日したイエズス会が日本で実践した布教の仕方は、「先に彼らの門から入って、然る後に自分自身の門から出る」という〃日本文化順応方針〃であった(註1)。そのため、キリシタンの墓碑は当初、日本の伝統的な縦長型の塔形墓碑が代用され、その過程でキリシタンの記号―十字架や洗礼名など―を彫り込んだ塔形キリシタン墓碑が、京阪地方を中心に現れた。
 「るいさ」墓碑のような伏せ碑型キリシタン墓碑(寝墓とも言う)が現れるのは、徳川時代に入ってからである(註2)。それはイエズス会の母国ポルトガルに由来するものであり(註3)、イエズス会が最後の布教基地としたキリシタン大名・ジョアン有馬晴信(1561―1612)の領内・島原半島にはじめて出現し、それ以降、豊後や都(みやこ)に伝播した(註4)。したがって、伏せ碑型キリシタン墓碑の分布は島原半島に集中し、140基ほどが知られている。
 これら島原半島のキリシタン墓碑を基準にして、豊後宇目の「るいさ」墓碑を検証すると意外な事実が判明する。それは、造形が正確精密であるとともに、大きさが桁違いに突出していることである。島原半島のそれの平均的長さは、91.0㌢㍍であるのに対し、「るいさ」墓碑はその2倍ある。島原で最大の伏せ碑型墓碑である「里阿ん」銘墓碑(雲仙市南串山)129㌢㍍よりも60㌢も長いのだ。超特大と言える存在である。
 こうしたキリシタン墓碑の統計学的調査から判断される「るいさ」墓碑は、したがってそれなりの人物が想定されなければならないであろう。日本式に言えば、大きさから言えば大名クラスに匹敵するものであり、女性であるからその側室のような人物である。
 「るいさ」は、半田説によると、宇目郷の庄屋役を補佐する地方役人「割元役」渡辺善左衛門の前妻であると想定されているが、主人でもなく、その夫人にして、しかも「前妻」の立場で、あれほどの巨大な墓碑をつくる必用があるのだろうか。
 渡辺家累代墓地に、もし初祖善左衛門の墓碑が現存しているなら分かり易いであろうが、おそらく、それとは比較にならないほど夫人「るいさ」の墓の方が大きいにちがいない。双方が釣り合わないのである。
 キリシタン墓碑から想定される「るいさ」と、定説「るいさ」との間には、ズレがあることを指摘しておきたい。(つづく)
紀年銘伏碑型キリシタン墓碑比較表―宮本作図

 【註1】…キリスト教の歴史で世界的にも異例とされる「日本文化順応方針」をイエズス会が如何なる理由で選択したのか、ルイス・フロイスは著書『日本史』の第一巻89章の中で説明している。H・チースリク著『キリシタン史考』(1995・聖母の騎士社)48-49頁参照。
 【註2】…伏せ碑型キリシタン墓碑(筆者は「ポルトガル様式墓碑」と称している)の初出は「南串山土手の元1号墓碑」の「慶長九年」(1604)。島原三会出土の「慶長九年十二月二十日」銘墓碑は、西暦で1605年になる。以下、「元和四年(1618)六月一四日/斎藤かすはる」銘の墓碑まで、島原半島では計14点の紀年銘の伏碑型墓碑が確認されている。熊本県での初出は「慶長十一年(1606)一月」銘の正覚寺1号墓碑。京都・大坂の初出は「御出世以来千六百八年(1608)戌申七月八日/さんちょ/波々泊部右近将監」銘の等寺院南町さんちょ墓碑。豊後大分県でも臼杵市下藤の「常珎」銘墓碑、掻懐(臼杵市)のカルワリオ十字架銘墓碑など多数の伏せ碑型墓碑が知られているが、紀年銘がない。「元和五年(1619)正月廿二日/るいさ」銘墓碑が唯一最後となる。『南島原市世界遺産地域調査報告書・日本キリシタン墓碑総覧』(企画・南島原市教育委員会、編集・大石一久、2012年刊)「第2章統計一覧」335-343頁参照。
 【註3】…片岡弥吉「キリシタン墓碑の源流と墓碑型式分類」(1976・キリシタン文化研究会刊『キリシタン研究第十六輯』) 
 【註4】…拙論「ポルトガル様式伏碑型キリシタン墓碑出現の背景」(2015・1)。
 

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