■宣教師の記録に登場する婦人「ルイサ」の家は宇目村―
ドミニコ会のオルファネール神父が豊後国竹田に入ったのは1613年12月、「ディエゴ弥五兵衛…の家に泊まった。」とある。
当時、豊後国にはイエズス会の司祭館が高田と野津、志賀(竹田)の三箇所にあり、これとは別にアウグスチノ会の修道院が臼杵と津久見、佐伯にあった。イエズス会は托鉢修道会(フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会)の日本入国を当初から認めない方針をとったため、徳川時代にフィリピンのマニラから入ってきた同修道会士たちを執拗に排斥したが、志賀(竹田)に於いては例外であったらしい。ディエゴ弥五兵衛の家は「すべての修道会の修道士たちの通常の宿になっていた」(前掲史料)。
ドミニコ会宣教師オルファネールはこの後、志賀(竹田)からアウグスチノ会修道院がある臼杵に向かうわけだが、野津を経て行く近道を取らなかった。オルファネール神父が別途編集した『日本キリシタン教会史』には、「若干回り道になる」(註1)とあるので、この史料に登場する「ルイサ」の家は、こんにち「るいさ」墓碑が存在する宇目村の位置と一致するであろう。
オルファネール神父は何故、わざわざ「回り道をして」ルイサの家を訪ねたのだろうか。理由の一つは、竹田から臼杵に至る途上の野津にあるイエズス会司祭館が利用できなかったことであり、もう一つは、竹田の宿主ディエゴ弥五兵衛から紹介されたルイサの家が、竹田同様、托鉢修道会宣教師をも迎え入れる状況にあった、ということだろう。ルイサが登場する他の一つの史料―イエズス会の「1615・1616年度日本年報」(後述)によって明らかになるが、彼女は禁教令下、身の危険を顧みず宣教師を匿(かくま)うほどの篤信のキリシタンであった。
―このようなルイサは、地方の一般信者というのではなく、宣教師たちから特別の信頼を得、相応の実力を持つ婦人であったと考えられる。
■半田説への疑問①―若すぎるルイサの年齢
ところで、半田氏は「るいさ」の夫である渡辺善左衞門の死亡年・享年(寛永18年、52歳で死去)から計算して、元和5年(1619)に夫善左衛門が29歳になることから、ルイサは「30歳前後で没したようだ」とした。これが事実であれば、オルファネール神父が宇目のルイサの家を訪ねた1613年、ルイサは24歳前後であったことになる。まだ、うら若い婦人である。
ところが、オルファネールの目撃記録によると、ルイサには青年一人、嫁いで子供3人と生まれたばかりの赤子の計4人の子を持つ娘があり、その母親―孫からすれば祖母になる人であった。それから6年後の1619年(元和5年)に死去したとすれば、どんなに若く見積もっても40歳を下らないであろう。半田氏が想定した渡辺善左衞門の前妻説は、オルファネールが実際に目撃した状況と一致させるには無理がある、と言わねばならない
これはルイサに関する今一つの情報―ルイサの兄弟である加賀山ディエゴ隼人の年齢―からも言えることであるので、後述したい。
(つづく)
「るいさ」墓碑前面の刻銘、「元和五年/るいさ/正月廿二(22)日」。(没)年月日は和暦。西暦では「1619年3月8日」になる。2018年5月筆者撮影。 |
※【註】…『オルファネール日本キリシタン教会史1602-1620年』(1977年・雄松堂書店発行)83頁。「豊後国を巡回していた時…女のキリシタン(ルイサ)が住んでいることを耳にした。彼(オルファネール)は、若干回り道にはなるが、…このキリシタンの家に行きたいと望んだ…」。
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