―はじめに―
来日した宣教師のひとり、イエズス会のフランシスコ・カブラル師は、豊後の国主大友宗麟(1530ー1587)について次のように語った。「日本の改宗は、デウスに次いでこの善良なる国主に負うている。」(註1)と―。誇張に見えるが、ある面、的中した。豊後一国のみならず、その影響力を九州・四国一円に及ぼして、日本のキリシタン時代を創出したからだ。しかし、彼は1587年(天正15)、夢半ばにして逝った。
1593年、後継者・義統が朝鮮戦役で失態を演じて改易処分を受けるや、豊後の国は瓦解した。そして、40年余かけて育んだキリシタン信仰の灯も同じく消滅したかに見えるが、宗教の興亡は、国の興亡と運命を共にしない法則がある。その灯は半ば隠れながらも、静かに燃え続けていた。豊臣秀吉のバテレン追放令(1587)後も、徳川幕府禁教令下の弾圧時代にも、そこには宣教師が秘かに潜伏し、信徒らの司牧活動が継続されていたのだ。
来日した宣教師のひとり、イエズス会のフランシスコ・カブラル師は、豊後の国主大友宗麟(1530ー1587)について次のように語った。「日本の改宗は、デウスに次いでこの善良なる国主に負うている。」(註1)と―。誇張に見えるが、ある面、的中した。豊後一国のみならず、その影響力を九州・四国一円に及ぼして、日本のキリシタン時代を創出したからだ。しかし、彼は1587年(天正15)、夢半ばにして逝った。
1593年、後継者・義統が朝鮮戦役で失態を演じて改易処分を受けるや、豊後の国は瓦解した。そして、40年余かけて育んだキリシタン信仰の灯も同じく消滅したかに見えるが、宗教の興亡は、国の興亡と運命を共にしない法則がある。その灯は半ば隠れながらも、静かに燃え続けていた。豊臣秀吉のバテレン追放令(1587)後も、徳川幕府禁教令下の弾圧時代にも、そこには宣教師が秘かに潜伏し、信徒らの司牧活動が継続されていたのだ。
一般には知られていないが、托鉢修道会の一派アウグスチノ会が布教活動の拠点としたのも豊後国である。1602年、同会の宣教師が徳川幕府の許可を得て臼杵に入り、続く1606年には佐伯、縣(あがた=日向国延岡)に進出して修道院と教会を建てた(註2)。
当時、「南郡(なんぐん)」と称された大分県南部の直入郡、大野郡、南海部郡の一帯は、400年を経た今もなお、司祭が潜伏したとされる洞窟や人工の掘削遺構、隠れのキリシタン信者が遺した墓石等の遺物が散在する。その中で、ひときわ目を引くのは宇目の「るいさ」のキリシタン墓碑であろう。
■求められる欧文史料による再検証
「ルイサ(Luisa)」という洗礼名を日本語ひらがなで陰刻したポルトガル様式キリシタン墓碑は、大分県の最南端、佐伯市最奥部山中の宇目重岡にある。
九州のキリシタン史をひもとくとき、誰もが一度は目にするであろうが、筆者の記憶は20年ほど前、キリシタン伊東一族を紹介するテレビ番組で見たそれだった。巨大で均整のとれた美しい造形の墓碑がつよく印象に残った。
九州のキリシタン史をひもとくとき、誰もが一度は目にするであろうが、筆者の記憶は20年ほど前、キリシタン伊東一族を紹介するテレビ番組で見たそれだった。巨大で均整のとれた美しい造形の墓碑がつよく印象に残った。
その後、イエズス会の「16-7世紀日本報告集」(全15巻)をはじめ、各種欧文翻訳史料を読み進めるなかで、ある日、「ルイザ」の文字が目に入った。そこが豊後国竹田に近い場所であったことから、「これが〃宇目のるいさ〃のことか―」と心に留めたことがあった。
時は巡り、2018年3月、「るいさ」について調査する機会を得た。複数の関連資料に目を通して分かったことは、「るいさ」という人物の特定について、昭和30年代はじめに大分大学の半田康夫教授(故人)が日本側の資料のみで調査された見解をそのまま、今なお繰り返し紹介している、ということだった。
半田教授の論文(註3)が発表されてから、すでに60年余りが経過している。その間、往時の来日宣教師たちが書き遺した一次史料―書簡・報告書等―の翻訳版が複数発刊され、その中には豊後の「ルイザ」の記事がいくつかある。これら欧文史料をもって再考・検証されなければならない、と考えた。―これが本論稿の意図である。(つづく)
2018年5月、現地調査のため、はじめて宇目を訪れた。新緑がひかる山道の旁らで、また重岡の「るいさ」墓地に至る坂道で、薄紫色の可憐な野アザミの花を見掛けた。 |
【註1】…「1581年9月15日付、日本のイエズス会の上長フランシスコ・カブラル師よりイエズス会の総長に宛てた書簡」(『16-7世紀イエズス会日本報告集』1991・同朋社出版、307頁)
【註2】…アウグスチノ会の豊後における布教展開は、原史料が確認されていないため、詳細は分からない。概要はレオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』に出ている。それによると、フランシスコ会の宣教師ヒエロニモ・デ・イエズス師が徳川幕府の意向を受けてフィリピンとの交渉にあたり、宣教師(ルイス・ゴメス師、ペドロ・デ・ギロス師ら)を伴って帰国、京都および関東で布教を開始した。一方、島津氏の要請を受けてマニラからドミニコ会が1602年に甑島(鹿児島県)に上陸、アウグスチヌス会も同年、来日した。アウグスチノ会のデ・ゲバラ師は、京都のフランシスコ会宣教師ヒエロニモ・デ・イエズス師を介して幕府の許可を得、豊後(臼杵)にアウグスチノ会の修道院・天主堂(教会)を建てた。1604年、修練院長オルチス師が臼杵に第二の天主堂を建てた。同年、エルナンド・デ・サン・ヨセフ師が豊後に着任。翌1606年、エルナンド師は佐伯に赴き、小さな修道院を建て、そこの大名「イチノカミドノ」(毛利伊勢守高政)は天主堂と大きな修道院を建てた。エルナンド師は日向国の縣(あがた=現延岡)にも出向き、天主堂を建てた。
【註2】…アウグスチノ会の豊後における布教展開は、原史料が確認されていないため、詳細は分からない。概要はレオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』に出ている。それによると、フランシスコ会の宣教師ヒエロニモ・デ・イエズス師が徳川幕府の意向を受けてフィリピンとの交渉にあたり、宣教師(ルイス・ゴメス師、ペドロ・デ・ギロス師ら)を伴って帰国、京都および関東で布教を開始した。一方、島津氏の要請を受けてマニラからドミニコ会が1602年に甑島(鹿児島県)に上陸、アウグスチヌス会も同年、来日した。アウグスチノ会のデ・ゲバラ師は、京都のフランシスコ会宣教師ヒエロニモ・デ・イエズス師を介して幕府の許可を得、豊後(臼杵)にアウグスチノ会の修道院・天主堂(教会)を建てた。1604年、修練院長オルチス師が臼杵に第二の天主堂を建てた。同年、エルナンド・デ・サン・ヨセフ師が豊後に着任。翌1606年、エルナンド師は佐伯に赴き、小さな修道院を建て、そこの大名「イチノカミドノ」(毛利伊勢守高政)は天主堂と大きな修道院を建てた。エルナンド師は日向国の縣(あがた=現延岡)にも出向き、天主堂を建てた。
【註3】…半田康夫教授の調査報告書は、『大分県文化財調査報告集第五集』(昭和三十二年五月刊)、『大分大学学芸学部研究紀要第七号』に「新たに発見した豊後の遺跡・遺物」が掲載されている。
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