2019年2月25日月曜日

キリシタン墓碑は変遷した―編年史試論―⑥

■六、伏碑型ポルトガル様式キリシタン墓碑の興隆そして衰退
 以上、ポルトガル様式伏碑墓碑が出現する理由とその経緯、そして、確認のためのいくつかの裏付け史料を見てきた。
 墓石を伏せ、ときには美しい花十字の紋様が彫り込まれたこの種のキリシタン墓碑は、日本のそれまでの歴史になかったものであり、日本人の目に印象深く映ったと思われる。1604年、コングレガチオが創設されたドン・ジョアン有馬晴信の領地・肥前国高来(たかく=島原半島)に出現して以来、急激に増加し、こんにち遺されたものだけでも島原半島内に約140基、他地域(熊本県・大分県・京都大坂)に約30基、計170基ほどが知られている。10年後の1614年(慶長18年臘月)禁教令発布によって急減するものの、その間わずかに10数年であったことからすると、この文化がいかに爆発的に浸透したかがわかる。
 その伝播は、九州では有馬国(高来)の周辺地―肥前国(長崎県内)と肥後国(熊本県)、そして豊後国(大分県)に限られ、それから遠く京都・大坂に飛んでいるのも特徴的である。
 このうち大分県にいくらか波及したのは、コングレガチオ信心会が豊後国の南郡(なんぐん=大分県南部の直入郡、大野郡、南海部郡の一帯)に存在したことによるものであろう。島原半島のそれよりすこし遅れて創設されたが、時はすでに禁教時代に差し掛かっていた(註1)。
 特異的に遠方の京都に波及したのは、紀年銘墓碑の統計によると島原に遅れること4年、1608年のことであった。そのような現象は、肥前国有馬と都との間に直線的なつながりが存在したことに由来すると考えられるが、有馬の国主ドン・ジョアン有馬晴信の後室として1599年、京都の公卿中山家から夫人(中山親綱の娘・菊亭季持未亡人、洗礼名ジュスタ)を迎えたことと、何らかの因果関係があるものと思われる。
 伏碑型ポルトガル様式キリシタン墓碑は統計によると、1619年(元和5)銘の豊後国宇目の「るいさ」墓碑を最後に姿を消し、次の「かくれ型」墓碑に移行する。(つづく)
伏碑型ポルトガル様式キリシタン墓碑の推移図


 ※1…豊後国の「コングレガチオ」信心会について、イエズス会は「ロレンゾ・デレ・ポッツェ訳、イエズス会総長宛、1615,16年度年報」でふれている。「彼らは秘蹟以上にキリシタンたちの心を強める手段を見出した。それは適当な時期を選んで行われる信心会(コングレガチオ)であった。そこでは死を賭しても信仰を守るという不動の堅い信念を告白すること以外には何一つ取り扱われなかった。この信心の組は、たいてい〃至聖なるマリアとその僕〃という名称のもとに開かれた。」(1996年・同朋社出版『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅱ期第2巻、218頁)。この中に登場する「身分の高い婦人」、「加賀山ディエゴ隼人の姉妹のルイザ」が、本稿で紹介する「豊後国宇目の〃るいさ〃墓碑」の被葬者である。本ブログ「欧文史料で読み解く宇目の〃るいさ〃」(2018年6月5~22日、13回連載)参照。


2019年2月24日日曜日

キリシタン墓碑は変遷した―編年史試論―⑤

五、墓碑改変を裏付けるいくつかの文書
 イエズス会の日本布教方針が当初の「適応主義」から慶長期半ば(1603年)に至って、ヴァリニャーノ師の離日とローマ本部直属の精鋭会員養成組織コングレガチオ・マリアーナの創設を機に元来のキリスト教精神に基づく西欧文化中心主義に転換されたことは、見てきたようにいくつかの前後の矛盾現象によって確認される。それは、異教の日本人から見れば一見、矛盾に見えるが、イエズス会側からすれば「先ず彼らの門から入り、然る後に自分自身の門から出る」(『日本史』第一巻81章)一連の行程の、最終局面「自分自身の門」に至ったということであろう。
 ところで、「自分自身の門」(ポルトガル様式墓碑)に行き着く間、イエズス会が借用した「彼らの門」すなわち仏塔型式の立碑型キリシタン墓碑は、ここに至って必然、廃棄され、改変を余儀なくされることになる。その仮定のもとにイエズス会の文書史料を読み直してみると、符合すると思われる記事に遭遇する。

 「(有馬のお告げの組(コングレガチオ)の有為な青年が病死した)…その葬式には有馬殿(晴信)も墓地まで見送った。この善良な領主は領内のキリシタンの組には皆、頭(かしら)となって保護を加えた。…諸所に十字架を建て、庶民の墓地も数カ所改修したので、皆大いに喜んだ。」(イエズス会「1604年度年報」)

 有馬の国主ドン・ジョアン有馬晴信が1604年(慶長9)、「庶民の墓地数カ所を改修した」という〃墓地改修〃が、いかなる理由でなされ、その内容がどのようなものであったかは判らないが、キリスト教の教義に基づく「自分自身の門」に帰趨(きすう)するためのそれであったと見ることができよう。有馬の領内にこの年、伏碑のキリシタン墓碑が出現したことと無関係ではないようだ。
 また翌1605年、長崎のコレジヨによって編纂・発行された『長崎サカラメンタ』には、「日本の神仏を棄てるべし」との、強い口調での指示が登場する。

 「ヒイデス(キリストを信じる信仰)なくしては後生を扶(たす)かること嘗(かつ)て叶はず。これによて天狗(悪魔サタン)の企み出せし神・仏の教えをいままで信仰し来りしゼンチョ(異教徒)の宗旨の勤(つとめ)を心の底より差棄て、ただ一筋にこの誠(真)のヒイデスを受保ち、死するまでも堅固にそのヒイデスに届かんと思ひ定むべし。

 日本の「ゼンチョの宗旨」である「神・仏の教え」を「心の底より差し棄てよ」というのは、元来のキリスト教の教え(価値観)からして然るべき話であるが、1605年になって敢えてこの原則を主張しなければならなかったのは、それまで借りた「彼らの門」を「差し棄て」なければならない状況に至ったからであろう。その状況とは言うまでもなく、ローマの本部方針によって運営される信心会「コングレガチオ・マリアーナ」が1603年、日本に創設されたことであった。
 イエズス会のこうした方針転換を受け入れることができず退会したキリシタン不干斎ファビアンは、後日、『破提宇子』を著してこの件にふれ、「日本の風俗をのけ…提宇子(ダイウス=キリスト教の神)己が国(ポルトガル)の風俗を(日本に)移し…」と、イエズス会の前後の矛盾行為を指摘している。
 これら複数の文書によってもイエズス会が1603年、従前の適応主義を見直し、ローマの同会本部と布教保護国であったポルトガル本国の方針を日本において採用したことが裏付けられるであろう。
 日本のキリシタン墓碑はこうして、1603年(慶長8)以後、仏塔型式の立碑からポルトガル様式の伏碑に変化を遂げることになる。

 なお、墓碑改変に伴って廃棄されたそれまでの仏塔型(立碑)キリシタン墓碑は、この際、キリシタンの作法―コンチリサン―を経て処理されたことを付記しておきたい(註1)。(つづく)
キリシタン大名ドン・ジョアン有馬晴信の拠城・日野江城二の丸から出土した「仏塔石階段」。ゼンチョの風習である仏塔石を借りてキリシタン墓碑にしてきたそれまでの方針が改められたとき、彼らはコンチリサンの償いの儀式をしてこれを埋めた。時期は1604年前後と考えられる。


 ※1…本ブログ掲載の論考「日野江城の仏塔石階段―それはコンチリサンの遺構であった」(2016年5月31日付)参照。

2019年2月23日土曜日

キリシタン墓碑は変遷した―編年史試論―④

■四、ヴァリニャーノ離日後、「適応主義」方針が見直される
 塔形立碑キリシタン墓碑が、日本在来の「習わし」である仏塔型式を踏襲したもの―イエズス会の適応主義に基づくもの―であったとするなら、慶長期後半1604年から伏碑型キリシタン墓碑が肥前国島原を中心に出現する現象は、ヴァリニャーノによって決定された「適応主義」が何らかの理由で見直され、本来のキリスト教布教方針に転換されたとみなければならない。
 この推測・仮定のもとに、イエズス会の慶長期前後の動向変化を各種点検検証してみると、「適応主義を見直した」という直截的表現の文書は見いだせないものの、従前の方針から反れたいくつかの現象を確認することができる。その最たるものは、ヴァリニャーノによって打ち出された日本人司祭の養成が中止され、セミナリヨを卒業してノヴィシャドで修練・修行を続けていた複数の神学生がやむなくマカオに送られた事実である。
 これらの方針転換をめぐってイエズス会内部でも対立があったようで、なかでも日本人の資質を評価し、日本人イルマンを司祭職にするため尽力していたメスキータ神父などは、「この国の人がそれほど信用できず才能のない者のように取り扱うことは、この国を侮辱することだ…何故、適当な人々を叙階(じょかい=昇格任命)しないのか」とイエズス会総長に訴えている(註1)。
 天正遣欧少年使節のひとり千々石ミゲルや、それまでカテキズモの日本語編纂などに尽くした不干斎ファビアンが去ったのも、この前後であった。
 カブラルが免職されたあと来日した宣教師の中にも、カブラルと同じように日本人に対して偏見を持ち、日本人司祭の養成・叙階を好まない人物もいた。メスキータ神父は、先の書簡で「修練(院)長のチェルソ・コンファロニエロ神父」を上げ、「傾き(偏見)が非常に強い」と批判している(註1)。
 
 ■ローマ直属のコングレガチオ創設が伏碑出現の引き金?
 ほかに一つ、布教方針をローマ式に見直したと思われるイエズス会の新たな動きがあった。1603年、有馬のコレジオに創設された「コングレガチオ・マリアーナ」という名称の、精鋭会員養成のための信心会である(註2)。
 この信心会は、各教区、地域ごとにつくられる一般のコンフラリアと異なり、ローマ本部に直属するという特徴がある。それはすなわちローマ本部の直接の指揮下に入ることを意味するものであり、日本の布教方針「適応主義」が外され、元来のキリスト教価値観に基づく布教方針が採用されるということである。
 イエズス会のこうした新たな動きの中で、当時のイエズス会活動の本拠地でもあり、有馬コレジオが機能していたドン・ジョアン有馬晴信の領内・肥前国島原半島に突如、ポルトガル(イエズス会の布教保護国)様式の伏碑が出現する。ヴァリニャーノ師が最後(3回目)の巡回を終えて日本を去り、コングレガチオが創設された翌年、1604年(慶長9)のことであった。(つづく)
1604年(慶長9)、ドン・ジョアン有馬晴信の領内・島原半島に出現したポルトガル様式伏碑型キリシタン墓碑。(左)が雲仙市小浜町飛子、(右)が島原市三会の発見。いずれも「慶長九年」の銘がある。


 ※1…「メスキータの1607年11月3日付、アクアヴィヴァ総長宛書簡」―結城了悟著『天正少年使節―史料と研究―』(1992・純心女子短期大学長崎地方史研究所発行)160~164頁。この中でメスキータ神父は、日本人に対して偏見を持っていた修練院長のチェルソ・コンファロニエロ神父らの情報をもとにヴァリニャーノ自身が晩年、「長年の経験によって意見を変えたのではないかと思われます。」とも記している。
 ※2…イエズス会指導の聖母信心会コングレガチオ・マリアーナは1563年、ローマ大学で発足した。この会の目的はカトリックリーダーを養成するエリート教育であり、徹底したプログラムが実践された。日本において「ローマの聖母会と同様な組織で、また正式にローマ本部の支部として認められた聖母信心会がはじめて編成されたのは、1603年の2月か3月に有馬のセミナリヨにおいてであった。それはローマ総会長アクアヴィーヴァの特別な指示により、またローマ本部のと同じく〃お告げの聖母(コングレガチオ・マリアーナ)〃の名義であった。」(フーベルト・チースリク著『キリシタンの心』199・聖母の騎士社刊、436~437頁)。
 

2019年2月22日金曜日

キリシタン墓碑は変遷した―編年史試論―③

 これらの統計から見えてくる、いくつかの情報がある。
 ①、先に立碑時代があり、慶長期半ば(1604年)から伏碑が出現する。
 ②、立碑形式は先ず、都(みやこ=京都・大坂)地方からはじまり、のちに九州・長崎に現れる。
 ③、伏碑型式は逆に慶長年間、肥前国島原に現れ、5年後に都(京都)に及んでいる。
 ④、立碑の主な分布地は、都地域であり、伏碑の主な分布地は肥前島原である。

 この中で最大の特徴的現象は①、日本のキリシタン墓碑が立碑から始まり、本来のキリスト教様式(ポルトガル様式)の伏碑が慶長期半ばから出現したことである。その歴史的経過を概観し、考察していくとき、日本のキリスト教宣教活動を主体的に担ったイエズス会の布教方針―世界的にも希有とされる日本文化順応方針・「適応主義」政策―と重なっている、という事実が見えてくるであろう。
 
 ■三、イエズス会の「適応主義」による立碑墓碑の出現
 イエズス会が日本布教の基本方針として適応主義を正式に決定したのは、1579年に来日した巡察使ヴァリニャーノ師であったが、それ以前の布教長トーレスやヴィレラ、入洛して京畿地方を担当したオルガンチーノらは、効果的布教が「できる限り万事にわたって日本人に順応するよう試みることである」として、「先ず彼らの門から入って、然る後の自分の門から出る」方針を採用した(註1)。
 もちろん、このやり方に異を唱える宣教師もなかったわけではない。オルガンチーノとともに1570年に来日したカブラル師は、異教の日本文化を否定し、日本人イルマンを差別待遇するなどして多々、衝突を引き起こした。
 そうした内部対立に決着をつけたのがヴァリニャーノ師であったが、「適応主義」を打ち出した巡察使と意見を異にした布教長カブラルは、みずから免職を願い、日本を去った。
 ヴァリニャーノは、これより日本をインド管区から離し、独立した準管区に昇格させ、その上長(準管区長)として新たにコエリユ神父を任命した。
 これ以降、カブラルが採用した『ローマ・カテキズモ』は、コエリユ布教長のもと『日本のカテキズモ』として再編集され、「イルマン(修道士)の心得」として「日本の習わし、形義(かたぎ=気質)を習う」ことが必須とされた(註2)。
 イエズス会が採ったこうした一連の活動方針は、カブラルが活動した九州よりも、むしろオルガンチーノが一貫して日本人順応方針で活動した都・大坂地方に徹底されたことであり、その結果として、日本の「習わし・形義」である塔形立碑形式のキリシタン墓碑が先に都地方に出現したのであった。(つづく)
大坂にはじめて出現した立碑の〈キリシタンしるし〉造形墓碑―「天正九年、礼幡」銘墓碑


 ※1…ルイス・フロイス『日本史』第一巻第81章。
 ※2…「エヴォラ屏風内張り史料」に「入満(=イルマン)心得ノ事」として、「形義ハ其々ノ国所ノ隔テニヨテ勝劣アリト雖モ、其所々ノ習ハシ、形義ヲ習フベキコト肝要也。…日本ニ於テハ日本ノ形義ヲ学ベキコト本意ナリ。…」とある(海老沢有道『キリシタン宗門の伝来』―岩波書店日本思想体系25『キリシタン書・排耶書』532頁)。

2019年2月21日木曜日

キリシタン墓碑は変遷した―編年史試論―②

二、キリシタン墓碑の統計分析
 日本キリシタン時代のキリシタン墓碑は当初、塔形立碑の時代があり、途中(慶長年間半ば)からポルトガル様式の伏碑が出現する(註1)。この大きな変化がいかなる理由によって生じたのか、あるいは何故、はじめから伏碑ではなかったのか、―それら基本的な問題を解くために、先ず、年紀が刻まれたキリシタン墓碑を抽出して、時代や分布の変化等を分析してみたい。

 ●紀年銘キリシタン墓碑一覧
 『日本キリシタン墓碑総覧』に、統計資料の一つとして「紀年銘・銘文一覧」表が掲げてある(同書341~343頁)。これによると年号が刻まれたものは計40基存在する。初出は1581年(天正9)で、最後は1622年(元和8)。禁教時代(1614年以降)に入ると自然、姿を消していくことになる。以下、同一覧表と、これをもとに図式化した統計表を掲げる。
『日本キリシタン墓碑総覧』掲載の統計資料「紀年銘・銘文一覧」から不要な項目を省略して作製した「紀年銘キリシタン墓碑一覧」表

全ての紀年銘墓碑を伏碑(上段)と立碑(下段)に分け、年代順に並べた変遷図(宮本作成)
(つづく)

1…伏碑がポルトガル由来のものであることは、片岡弥吉氏が明らかにされた。「キリシタン墓碑の源流と型式分類―片岡弥吉」(1976年吉川弘文館発行『キリシタン研究第十六輯』115~140頁)。「キリシタン墓碑―片岡弥吉」(1979年小学館発行『探訪大航海時代の日本7南蛮文化』127~140頁)

2019年2月20日水曜日

キリシタン墓碑は変遷した―編年史試論―①

はじめに
 最近、豊後地方のキリシタン史を探索しながら、キリシタン墓碑に遭遇する機会が多々あった。途次、長崎・天草地方の潜伏キリシタン関連遺産が世界遺産に決定登録された時期と相まって、臼杵市野津の下藤キリシタン墓地が国の史蹟に指定されたことは、同墓碑への関心を一層深めることとなった。下藤墓地の墓碑は、複数の石を長方形に組み合わせた「石組み」形式の、潜伏時代「かくれ」様式墓碑の形態の一つである。ほかに長崎県、山口県にも分布がみられる。
 「元和五年正月廿二日」銘のある臼杵市宇目の「るいさ」墓碑は、その巨大さと造形の美しさで知られてきた。それ以前、筆者は肥前国島原半島(長崎県)に頻在するポルトガル由来の伏碑型キリシタン墓碑の統計調査と考察、立碑型で特異的な存在でもある島原三会(みえ)の「またれいな」銘墓碑被葬者の特定作業などを経ていたこともあり、同墓碑から読み取れる情報とともにイエズス会および托鉢修道会宣教師の記録文書等を照合しながら「るいさ」を特定するに至った(註1)。
 「るいさ」墓碑は、日本に存在する単体墓碑の中で最大のものであり、「キリシタン墓碑の大名墓」であった。
 本稿は、その証明の中でふれた「キリシタン墓碑変遷史」にかんする論考である。
 
一、キリシタン墓碑とは何か?
 全国に分布するキリシタン墓碑にかんして、近年、その総合的調査がなされ、いくつかの図録・論集が刊行された。『日本キリシタン墓碑総覧』(南島原市教育委員会企画・大石一久編集、1012年刊)は収録資料と論考双方において顕著なものであるが、その中で編集者・大石氏は、キリシタン墓碑の定義について次のように説明している。
 ①キリシタン意匠を施した墓碑
 ②キリシタン特有の伏碑である墓碑
 ③キリシタン関連遺物
 ④その他

 かねてからキリシタン墓碑は時代や状況とともに変遷した事実を捉えていた筆者は、この定義付けには少なからず困惑した。たとえば、第二項目の「伏碑」が日本キリシタン史上に現れるのは、ザビエルの布教から半世紀を経た1604年(慶長9年)からであり、徳川幕府の禁教弾圧時代に入る直前(10年以前)のことであった。また、第一項の「キリシタン意匠が施された墓碑」の初出は天正9年(1581)であり、これらをキリシタン墓碑定義の主項目とするなら、日本のキリシタン世紀の大半―少なくとも前期30年間は、キリシタン墓碑がまったく存在しなかったということになり、矛盾が生じるであろう。
 筆者は、キリシタン墓碑の定義を、「キリシタン信者を葬った墓碑である」としたい。(つづく)
『南島原市世界遺産地域調査報告書日本切支丹墓碑総覧』(企画・南島原市教育委員会、編集・大石一久。2012年発行)

 ※1…「るいさ」は、細川忠興の家臣で小倉キリシタン宗団のリーダーでもあったディエゴ加賀山隼人(1619年殉教)の姉妹にして、「イチノカミドノ」と称された佐伯藩主・毛利高政の夫人(妾妻)であった。また、禁教時代のイエズス会地下組織「コングレガチオ」信心会のリーダーとして宣教師の潜伏と信者たちの扶助活動に尽力した。本ブログの「欧文史料で読み解く豊後宇目の〃るいさ〃」参照。



 

2019年2月2日土曜日

清田凉泉院とマグダレナ清田のこと(下)

マグダレナ清田
 1627年8月17日、長崎で火炙りの刑により殉教死したこの人物についての基本的な史料は、レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史』の次の記録である。

 「8月17日、聖ドミニコ会第三会員4人が火炙りになった。これ修道者たちの宿主で、伝道士なるフランシスコ・クロビョーエ、デ・トルレス神父の宿主で元来朝鮮人のカイオ・ジエモン、豊後のドン・フランシスコ(大友宗麟)の子孫たる日本人の寡婦マグダレナ・キオタ(清田)、既婚の日本人フランシスカ、この4人は皆聖ドミニコ会の第三会員で、火炙りになった。フランシスコとカイオとは宿主として死刑を受け、また2人の婦人は自宅に祈祷所を持ち、宗教的の物品を隠匿していたといふので、死刑を受けた。
 ※…マグダレナ清田「彼女は30歳の時、寡婦となり、長崎に追はれて来ていた。デ・トルレス神父は彼女の家でミサを献てなければならなかった。この時、彼女は自宅に監禁され、かくて1622年から1627年まで4年間このまゝでいた。彼女は58歳であった。

 マグダレナ清田は「豊後のドン・フランシスコ(大友宗麟)の子孫…」とあるので、ジュスタの娘であることに間違いない。1627年に58歳で殉教した。生年は1569年(永禄12)となる。母ジュスタが清田鎮忠と結ばれる1575年より6年前であるから、前夫・一条兼定との間の娘であった。
 邦文史料に、大友宗麟の「女子(長女ジュスタ)」は「土佐国騒動故、幼稚姫と共に豊後に帰る。其の後、清田太郎鎮忠に再嫁す」とあり、清田鎮忠に再嫁したとき連れ子があったとしている(註1)。その「幼稚姫」なる連れ子こそ、のちのマグダレナ清田であった。
 1599年、30歳で寡婦となり、その前後、長崎に逃れ、ドミニコ会の信者となった。殉教(1627年)後240年目の1867年7月7日、ローマ教皇ピオ9世によって列福された。

清田凉泉院
 イエズス会の記録によると、ジュスタが1575年に再嫁した清田鎮忠との間に2人の娘が生まれた。最初の娘は1578年、「2歳で病死」した。その2年後、1580年度イエズス会年報に登場する「嗣子になる幼い娘」が、のちの「凉泉院」である。
 清田鎮忠・ジュスタ家を継いだのは「養子」で迎えられた「ドン・パウロ(志賀親次)の兄弟」である。1586年、清田鎮忠とジュスタの2番目の女子「嗣子になる」娘がおよそ10歳になったとき結婚し、夫(志賀親次の兄弟)は「主計鎮乗」を名乗り、受洗。「ドン・ペドロ」と称した。
 父鎮忠が領国を追われた1587年(天正15)、同じく豊後を去り、柳川の立花家を頼ったと思われる。その後、細川忠興が豊前国に赴任したあと1609年(慶長14)、細川家に仕えた。のちに細川忠興の後室となる「幾知(圓通院)」も伴っていた。
 1611年以後、細川忠興はキリシタン弾圧を本格化し、キリシタンとして知られた鎮乗・凉泉院夫妻はしばらく黙認されたものの、大友宗麟の孫姫になる凉泉院は寛永13年(1636)改宗。「転切支丹(ころびきりしたん)」となった。藩主細川氏は凉泉院の子孫を「切支丹類族改」の対象とし、「私家来清田石見母転切支丹凉泉院系」として監視下に置いた(註3)。
 凉泉院の没年や享年に関する文書史料、墓碑があるのか否か不明。キリシタン類族の墓碑は公には存在しないので、あるとすればどこかに隠してある。

あとがき
 マグダレナ清田は1569年生まれ、1627年に長崎で火炙り刑を受け、殉教した。一方、清田凉泉院の生年は、彼女がイエズス会1580年記録(書簡)に登場する清田鎮忠・ジュスタ夫妻の「嗣子になる幼い娘」であるとすれば、最初の娘が「2歳」で病死したあとの、1578年~79年頃となる。その確認作業が残された課題となる。ちなみに、細川藩の切支丹類族改帳にある「清田石見母転切支丹凉泉院系」(註2)には「清田石見母/清田凉泉院」とあるのみで、他に記載がない。
 母親はいずれもジュスタ(大友宗麟の長女)であるが、父親は、マグダレナ清田が一条兼定、凉泉院は清田鎮忠。ふたりは異父姉妹であった(註3)。
 
 ※1…狩野照己・前田重治共著『大友の末葉・清田一族』38頁。
 ※2…上妻博之編著『肥後切支丹史・下巻』(1989年(株)エルピス発行)409頁に「私家来清田石見母転切支丹凉泉院系」が掲載されている。
 ※3…「津々堂のたわごと日録」ブログ主氏は2018年7月17日付記事「清田凉泉院とは」で、「凉泉院とは主計鎮乗・室であり、殉教列福したマグダレナ清田の妹であり、…」と優れた考察をしておられる。
細川藩「切支丹類族改」のうち「私家来清田石見母転切支丹凉泉院系」にみられる「凉泉院」と「清田主計鎮乗」(部分)。凉泉院は「清田石見母」とあるのみで、没年・享年の記載がない。また、この系図に「清田石見」は記載されているが、姉妹で細川忠興の後室となった「幾知(圓通院)」は省かれている。


2019年2月1日金曜日

清田凉泉院とマグダレナ清田のこと(上)

まえがき
 イエズス会と托鉢修道会(ドミニコ会、アウグスチノ会)の宣教師たちが遺した文書史料をもとに筆者は、キリシタン史に係る幾分かの日本史の再検証に取り組んできた。その作業は、基本的には一次史料としての書簡・年報等の欧文史料を重視しながら、後世編集された二次史料または邦文史料をもって裏付けするのを常としている。欧文史料は、情報が豊富である反面、禁教・弾圧時代に入るとそれが途切れ、史実の行方が不明になる場合があるからである。たとえば豊後国において、大友宗麟時代は驚くほど詳しく叙述されているのに、宗麟が死去した天正15年(1587)以降になると、主家および家臣団の動きが見えにくくなる。志賀氏や清田氏がそうである。
 
清田鎮忠・ジュスタ夫妻の子女について
 清田鎮忠とジュスタ(大友宗麟長女)夫妻の子女について、イエズス会文書は「二人の女児」を記録し、「男子はいなかった」としている。これに対し邦文史料は男子「鎮隅」、「五郎大夫(政家)」らの存在を伝えているが、それは鎮忠の前妻との間の子どもであった(註1)。同家を「嗣いだ」のは女児であり、これに「ドン・パウロ(志賀親次)の兄弟を養子として」迎えた、と明記しているのだ(註2)。邦文史料に記録される「清田主計鎮乗」と妻「凉泉院」のことである。
 「凉泉院」をイエズス会文書で確認すると、「1580年10月20日付、豊後発信、ロレンソ・メシヤのイエズス会総長宛1580年度日本年報」に登場する「嗣子になる幼い娘」がそれであろう。
 敢えて「嗣子になる―」(註3)と表現したのは、その2年前の1578年、鎮忠・ジュスタ夫妻の間に生まれた娘が「2歳くらい」にして病死したのを踏まえてのことと思われるが、たとえ「女児」であったとしても主家・大友家の血筋を重視して家系を継ぐという、武家社会における豊後大友家の位置―宗麟の長女ジュスタ―が特別なものであったことを裏付ける言葉と見ることもできる。

 筆者はこれまで、1580年度年報に出てくる「嗣子になる幼い娘」を、後日1627年8月17日に長崎で殉教死するマグダレナ(マタレイナ)清田とし、これをジュスタの「連れ子」―前夫・一条兼定との間の娘―と想定してきた。マグダレナ清田の没年(1627年)・享年(58歳)から逆算して1569年の生まれになるため、ジュスタが清田鎮忠に嫁ぐ1575年以前の子どもになるからである。
 加えて言えば、1578年に娘が「2歳くらい」で病死したあともう一人娘が生まれ、それを「嗣子になる―」とするからには、相応の年齢が伴わなければならないと考えたことも理由の一つであった。

 一方、「凉泉院」の足跡を確認すべく関連の邦文史料を探したが、彼女がもとキリシタンであり、「寛永13年(1636)」に「転宗」して「転切支丹(ころびきりしたん)」となったからであろうか、藩主細川忠興の後室(幾知・圓通院)の母親であるにもかかわらず、十分な史料を得ることができなかった。
 そのような経緯と考察をもとに、清田鎮乗(実は志賀親次の兄弟)の夫人「凉泉院」を「マグダレナ清田」と想定し、いくつかを稿を上げてきたが、その後、この両者―マグダレナ清田と凉泉院―は別人であることが判明してきた。

凉泉院とマグダレナ清田は別人であった!
 理由の一つは、マグダレナ清田と凉泉院の夫にかんする記録の不一致である。レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』が記録する殉教者マグダレナ清田は「30歳のとき寡婦」となっているので、彼女の生年(1569年)および没年・享年(1627年・58歳)からから計算すると1599年(慶長4)に夫と死に別れたことになる。ところが、凉泉院の夫・清田主計鎮乗は「慶長14年(1609)豊前にて(細川氏に)仕え」(註4)、その後も生きているのである。
 もう一つの理由は、凉泉院がもとキリシタンであって、1636年(寛永13)に改宗し「転切支丹」になったという邦文史料『勤談跡覧』の記録である。述べたように、欧文史料はマグダレナ清田が頑なにキリシタン信仰を維持し、信仰を棄てなかったがため、1627年(寛永4)に殉教死したと記している。凉泉院とマグダレナ清田のキリシタン信仰の有無如何はもとより、二人の没年が異なっているのだ。両者は明らかに別人でなければならない。
 ここに至って筆者は、マグダレナ清田と凉泉院(清田鎮乗夫人)を同一人物と仮定して記した原稿を訂正しなければならない。
 以下、この二人の人物について、出自や経歴等を再確認して、若干を述べてみたい。(つづく)
大友ジュスタと夫、その娘たちの関係図

 ※1…本ブログ2017年11月26日付「清田鎮忠・ジュスタ夫妻の男児の有無に関する考察」参照。
 ※2…「清田は、御寮人(ジュスタ)とその夫清田殿(鎮忠)がキリシタンで、その領地のすべてをキリシタンにした…彼らには(男の)子がなかったので、ドン・パウロ(志賀親次)の兄弟を養子にし、ドン・パウロが邪魔の入らない内に同人に洗礼を受けさせ、その名をドン・ペドロとした。」(「1586年10月2日付、臼杵発信、ペロ・ゴーメスのアレシャンドロ・ヴァリニャーノ宛書簡」)。
 ※3…同じ原文をH・チースリク氏は「世嗣ぎとなる娘」と翻訳している(H・チースリク著『キリストの証し人』(聖母文庫)237頁)。
 ※4…2「津々堂のたわごと日録」氏のブログ(2011年1月29日付)に掲載された「清田家を調べているものです」氏提供の史料に「壁山金公居士/清田主計鎮乗/後改寿閑幼名久米之/大友一族豊後国大分郡萱場城主/大友義統没落供養(不明)/慶長十四年九月豊前初仕/…」とある。