2019年2月22日金曜日

キリシタン墓碑は変遷した―編年史試論―③

 これらの統計から見えてくる、いくつかの情報がある。
 ①、先に立碑時代があり、慶長期半ば(1604年)から伏碑が出現する。
 ②、立碑形式は先ず、都(みやこ=京都・大坂)地方からはじまり、のちに九州・長崎に現れる。
 ③、伏碑型式は逆に慶長年間、肥前国島原に現れ、5年後に都(京都)に及んでいる。
 ④、立碑の主な分布地は、都地域であり、伏碑の主な分布地は肥前島原である。

 この中で最大の特徴的現象は①、日本のキリシタン墓碑が立碑から始まり、本来のキリスト教様式(ポルトガル様式)の伏碑が慶長期半ばから出現したことである。その歴史的経過を概観し、考察していくとき、日本のキリスト教宣教活動を主体的に担ったイエズス会の布教方針―世界的にも希有とされる日本文化順応方針・「適応主義」政策―と重なっている、という事実が見えてくるであろう。
 
 ■三、イエズス会の「適応主義」による立碑墓碑の出現
 イエズス会が日本布教の基本方針として適応主義を正式に決定したのは、1579年に来日した巡察使ヴァリニャーノ師であったが、それ以前の布教長トーレスやヴィレラ、入洛して京畿地方を担当したオルガンチーノらは、効果的布教が「できる限り万事にわたって日本人に順応するよう試みることである」として、「先ず彼らの門から入って、然る後の自分の門から出る」方針を採用した(註1)。
 もちろん、このやり方に異を唱える宣教師もなかったわけではない。オルガンチーノとともに1570年に来日したカブラル師は、異教の日本文化を否定し、日本人イルマンを差別待遇するなどして多々、衝突を引き起こした。
 そうした内部対立に決着をつけたのがヴァリニャーノ師であったが、「適応主義」を打ち出した巡察使と意見を異にした布教長カブラルは、みずから免職を願い、日本を去った。
 ヴァリニャーノは、これより日本をインド管区から離し、独立した準管区に昇格させ、その上長(準管区長)として新たにコエリユ神父を任命した。
 これ以降、カブラルが採用した『ローマ・カテキズモ』は、コエリユ布教長のもと『日本のカテキズモ』として再編集され、「イルマン(修道士)の心得」として「日本の習わし、形義(かたぎ=気質)を習う」ことが必須とされた(註2)。
 イエズス会が採ったこうした一連の活動方針は、カブラルが活動した九州よりも、むしろオルガンチーノが一貫して日本人順応方針で活動した都・大坂地方に徹底されたことであり、その結果として、日本の「習わし・形義」である塔形立碑形式のキリシタン墓碑が先に都地方に出現したのであった。(つづく)
大坂にはじめて出現した立碑の〈キリシタンしるし〉造形墓碑―「天正九年、礼幡」銘墓碑


 ※1…ルイス・フロイス『日本史』第一巻第81章。
 ※2…「エヴォラ屏風内張り史料」に「入満(=イルマン)心得ノ事」として、「形義ハ其々ノ国所ノ隔テニヨテ勝劣アリト雖モ、其所々ノ習ハシ、形義ヲ習フベキコト肝要也。…日本ニ於テハ日本ノ形義ヲ学ベキコト本意ナリ。…」とある(海老沢有道『キリシタン宗門の伝来』―岩波書店日本思想体系25『キリシタン書・排耶書』532頁)。

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