イエズス会の日本布教方針が当初の「適応主義」から慶長期半ば(1603年)に至って、ヴァリニャーノ師の離日とローマ本部直属の精鋭会員養成組織コングレガチオ・マリアーナの創設を機に元来のキリスト教精神に基づく西欧文化中心主義に転換されたことは、見てきたようにいくつかの前後の矛盾現象によって確認される。それは、異教の日本人から見れば一見、矛盾に見えるが、イエズス会側からすれば「先ず彼らの門から入り、然る後に自分自身の門から出る」(『日本史』第一巻81章)一連の行程の、最終局面「自分自身の門」に至ったということであろう。
ところで、「自分自身の門」(ポルトガル様式墓碑)に行き着く間、イエズス会が借用した「彼らの門」すなわち仏塔型式の立碑型キリシタン墓碑は、ここに至って必然、廃棄され、改変を余儀なくされることになる。その仮定のもとにイエズス会の文書史料を読み直してみると、符合すると思われる記事に遭遇する。
「(有馬のお告げの組(コングレガチオ)の有為な青年が病死した)…その葬式には有馬殿(晴信)も墓地まで見送った。この善良な領主は領内のキリシタンの組には皆、頭(かしら)となって保護を加えた。…諸所に十字架を建て、庶民の墓地も数カ所改修したので、皆大いに喜んだ。」(イエズス会「1604年度年報」)
有馬の国主ドン・ジョアン有馬晴信が1604年(慶長9)、「庶民の墓地数カ所を改修した」という〃墓地改修〃が、いかなる理由でなされ、その内容がどのようなものであったかは判らないが、キリスト教の教義に基づく「自分自身の門」に帰趨(きすう)するためのそれであったと見ることができよう。有馬の領内にこの年、伏碑のキリシタン墓碑が出現したことと無関係ではないようだ。
また翌1605年、長崎のコレジヨによって編纂・発行された『長崎サカラメンタ』には、「日本の神仏を棄てるべし」との、強い口調での指示が登場する。
「ヒイデス(キリストを信じる信仰)なくしては後生を扶(たす)かること嘗(かつ)て叶はず。これによて天狗(悪魔サタン)の企み出せし神・仏の教えをいままで信仰し来りしゼンチョ(異教徒)の宗旨の勤(つとめ)を心の底より差棄て、ただ一筋にこの誠(真)のヒイデスを受保ち、死するまでも堅固にそのヒイデスに届かんと思ひ定むべし。」
日本の「ゼンチョの宗旨」である「神・仏の教え」を「心の底より差し棄てよ」というのは、元来のキリスト教の教え(価値観)からして然るべき話であるが、1605年になって敢えてこの原則を主張しなければならなかったのは、それまで借りた「彼らの門」を「差し棄て」なければならない状況に至ったからであろう。その状況とは言うまでもなく、ローマの本部方針によって運営される信心会「コングレガチオ・マリアーナ」が1603年、日本に創設されたことであった。
イエズス会のこうした方針転換を受け入れることができず退会したキリシタン不干斎ファビアンは、後日、『破提宇子』を著してこの件にふれ、「日本の風俗をのけ…提宇子(ダイウス=キリスト教の神)己が国(ポルトガル)の風俗を(日本に)移し…」と、イエズス会の前後の矛盾行為を指摘している。
これら複数の文書によってもイエズス会が1603年、従前の適応主義を見直し、ローマの同会本部と布教保護国であったポルトガル本国の方針を日本において採用したことが裏付けられるであろう。
日本のキリシタン墓碑はこうして、1603年(慶長8)以後、仏塔型式の立碑からポルトガル様式の伏碑に変化を遂げることになる。
なお、墓碑改変に伴って廃棄されたそれまでの仏塔型(立碑)キリシタン墓碑は、この際、キリシタンの作法―コンチリサン―を経て処理されたことを付記しておきたい(註1)。(つづく)
キリシタン大名ドン・ジョアン有馬晴信の拠城・日野江城二の丸から出土した「仏塔石階段」。ゼンチョの風習である仏塔石を借りてキリシタン墓碑にしてきたそれまでの方針が改められたとき、彼らはコンチリサンの償いの儀式をしてこれを埋めた。時期は1604年前後と考えられる。 |
※註1…本ブログ掲載の論考「日野江城の仏塔石階段―それはコンチリサンの遺構であった」(2016年5月31日付)参照。
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