2019年2月20日水曜日

キリシタン墓碑は変遷した―編年史試論―①

はじめに
 最近、豊後地方のキリシタン史を探索しながら、キリシタン墓碑に遭遇する機会が多々あった。途次、長崎・天草地方の潜伏キリシタン関連遺産が世界遺産に決定登録された時期と相まって、臼杵市野津の下藤キリシタン墓地が国の史蹟に指定されたことは、同墓碑への関心を一層深めることとなった。下藤墓地の墓碑は、複数の石を長方形に組み合わせた「石組み」形式の、潜伏時代「かくれ」様式墓碑の形態の一つである。ほかに長崎県、山口県にも分布がみられる。
 「元和五年正月廿二日」銘のある臼杵市宇目の「るいさ」墓碑は、その巨大さと造形の美しさで知られてきた。それ以前、筆者は肥前国島原半島(長崎県)に頻在するポルトガル由来の伏碑型キリシタン墓碑の統計調査と考察、立碑型で特異的な存在でもある島原三会(みえ)の「またれいな」銘墓碑被葬者の特定作業などを経ていたこともあり、同墓碑から読み取れる情報とともにイエズス会および托鉢修道会宣教師の記録文書等を照合しながら「るいさ」を特定するに至った(註1)。
 「るいさ」墓碑は、日本に存在する単体墓碑の中で最大のものであり、「キリシタン墓碑の大名墓」であった。
 本稿は、その証明の中でふれた「キリシタン墓碑変遷史」にかんする論考である。
 
一、キリシタン墓碑とは何か?
 全国に分布するキリシタン墓碑にかんして、近年、その総合的調査がなされ、いくつかの図録・論集が刊行された。『日本キリシタン墓碑総覧』(南島原市教育委員会企画・大石一久編集、1012年刊)は収録資料と論考双方において顕著なものであるが、その中で編集者・大石氏は、キリシタン墓碑の定義について次のように説明している。
 ①キリシタン意匠を施した墓碑
 ②キリシタン特有の伏碑である墓碑
 ③キリシタン関連遺物
 ④その他

 かねてからキリシタン墓碑は時代や状況とともに変遷した事実を捉えていた筆者は、この定義付けには少なからず困惑した。たとえば、第二項目の「伏碑」が日本キリシタン史上に現れるのは、ザビエルの布教から半世紀を経た1604年(慶長9年)からであり、徳川幕府の禁教弾圧時代に入る直前(10年以前)のことであった。また、第一項の「キリシタン意匠が施された墓碑」の初出は天正9年(1581)であり、これらをキリシタン墓碑定義の主項目とするなら、日本のキリシタン世紀の大半―少なくとも前期30年間は、キリシタン墓碑がまったく存在しなかったということになり、矛盾が生じるであろう。
 筆者は、キリシタン墓碑の定義を、「キリシタン信者を葬った墓碑である」としたい。(つづく)
『南島原市世界遺産地域調査報告書日本切支丹墓碑総覧』(企画・南島原市教育委員会、編集・大石一久。2012年発行)

 ※1…「るいさ」は、細川忠興の家臣で小倉キリシタン宗団のリーダーでもあったディエゴ加賀山隼人(1619年殉教)の姉妹にして、「イチノカミドノ」と称された佐伯藩主・毛利高政の夫人(妾妻)であった。また、禁教時代のイエズス会地下組織「コングレガチオ」信心会のリーダーとして宣教師の潜伏と信者たちの扶助活動に尽力した。本ブログの「欧文史料で読み解く豊後宇目の〃るいさ〃」参照。



 

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