イエズス会と托鉢修道会(ドミニコ会、アウグスチノ会)の宣教師たちが遺した文書史料をもとに筆者は、キリシタン史に係る幾分かの日本史の再検証に取り組んできた。その作業は、基本的には一次史料としての書簡・年報等の欧文史料を重視しながら、後世編集された二次史料または邦文史料をもって裏付けするのを常としている。欧文史料は、情報が豊富である反面、禁教・弾圧時代に入るとそれが途切れ、史実の行方が不明になる場合があるからである。たとえば豊後国において、大友宗麟時代は驚くほど詳しく叙述されているのに、宗麟が死去した天正15年(1587)以降になると、主家および家臣団の動きが見えにくくなる。志賀氏や清田氏がそうである。
■清田鎮忠・ジュスタ夫妻の子女について
清田鎮忠とジュスタ(大友宗麟長女)夫妻の子女について、イエズス会文書は「二人の女児」を記録し、「男子はいなかった」としている。これに対し邦文史料は男子「鎮隅」、「五郎大夫(政家)」らの存在を伝えているが、それは鎮忠の前妻との間の子どもであった(註1)。同家を「嗣いだ」のは女児であり、これに「ドン・パウロ(志賀親次)の兄弟を養子として」迎えた、と明記しているのだ(註2)。邦文史料に記録される「清田主計鎮乗」と妻「凉泉院」のことである。
「凉泉院」をイエズス会文書で確認すると、「1580年10月20日付、豊後発信、ロレンソ・メシヤのイエズス会総長宛1580年度日本年報」に登場する「嗣子になる幼い娘」がそれであろう。
敢えて「嗣子になる―」(註3)と表現したのは、その2年前の1578年、鎮忠・ジュスタ夫妻の間に生まれた娘が「2歳くらい」にして病死したのを踏まえてのことと思われるが、たとえ「女児」であったとしても主家・大友家の血筋を重視して家系を継ぐという、武家社会における豊後大友家の位置―宗麟の長女ジュスタ―が特別なものであったことを裏付ける言葉と見ることもできる。
筆者はこれまで、1580年度年報に出てくる「嗣子になる幼い娘」を、後日1627年8月17日に長崎で殉教死するマグダレナ(マタレイナ)清田とし、これをジュスタの「連れ子」―前夫・一条兼定との間の娘―と想定してきた。マグダレナ清田の没年(1627年)・享年(58歳)から逆算して1569年の生まれになるため、ジュスタが清田鎮忠に嫁ぐ1575年以前の子どもになるからである。
加えて言えば、1578年に娘が「2歳くらい」で病死したあともう一人娘が生まれ、それを「嗣子になる―」とするからには、相応の年齢が伴わなければならないと考えたことも理由の一つであった。
一方、「凉泉院」の足跡を確認すべく関連の邦文史料を探したが、彼女がもとキリシタンであり、「寛永13年(1636)」に「転宗」して「転切支丹(ころびきりしたん)」となったからであろうか、藩主細川忠興の後室(幾知・圓通院)の母親であるにもかかわらず、十分な史料を得ることができなかった。
そのような経緯と考察をもとに、清田鎮乗(実は志賀親次の兄弟)の夫人「凉泉院」を「マグダレナ清田」と想定し、いくつかを稿を上げてきたが、その後、この両者―マグダレナ清田と凉泉院―は別人であることが判明してきた。
■凉泉院とマグダレナ清田は別人であった!
理由の一つは、マグダレナ清田と凉泉院の夫にかんする記録の不一致である。レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』が記録する殉教者マグダレナ清田は「30歳のとき寡婦」となっているので、彼女の生年(1569年)および没年・享年(1627年・58歳)からから計算すると1599年(慶長4)に夫と死に別れたことになる。ところが、凉泉院の夫・清田主計鎮乗は「慶長14年(1609)豊前にて(細川氏に)仕え」(註4)、その後も生きているのである。
もう一つの理由は、凉泉院がもとキリシタンであって、1636年(寛永13)に改宗し「転切支丹」になったという邦文史料『勤談跡覧』の記録である。述べたように、欧文史料はマグダレナ清田が頑なにキリシタン信仰を維持し、信仰を棄てなかったがため、1627年(寛永4)に殉教死したと記している。凉泉院とマグダレナ清田のキリシタン信仰の有無如何はもとより、二人の没年が異なっているのだ。両者は明らかに別人でなければならない。
ここに至って筆者は、マグダレナ清田と凉泉院(清田鎮乗夫人)を同一人物と仮定して記した原稿を訂正しなければならない。
以下、この二人の人物について、出自や経歴等を再確認して、若干を述べてみたい。(つづく)
大友ジュスタと夫、その娘たちの関係図 |
※註1…本ブログ2017年11月26日付「清田鎮忠・ジュスタ夫妻の男児の有無に関する考察」参照。
※註2…「清田は、御寮人(ジュスタ)とその夫清田殿(鎮忠)がキリシタンで、その領地のすべてをキリシタンにした…彼らには(男の)子がなかったので、ドン・パウロ(志賀親次)の兄弟を養子にし、ドン・パウロが邪魔の入らない内に同人に洗礼を受けさせ、その名をドン・ペドロとした。」(「1586年10月2日付、臼杵発信、ペロ・ゴーメスのアレシャンドロ・ヴァリニャーノ宛書簡」)。
※註3…同じ原文をH・チースリク氏は「世嗣ぎとなる娘」と翻訳している(H・チースリク著『キリストの証し人』(聖母文庫)237頁)。
※註4…2「津々堂のたわごと日録」氏のブログ(2011年1月29日付)に掲載された「清田家を調べているものです」氏提供の史料に「壁山金公居士/清田主計鎮乗/後改寿閑幼名久米之/大友一族豊後国大分郡萱場城主/大友義統没落供養(不明)/慶長十四年九月豊前初仕/…」とある。
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