2018年6月13日水曜日

欧文史料で読み解く豊後宇目の「るいさ」⑩

■ナバロ神父、豊後を去る
 ペトロ・パウロ・ナバロ神父は1561年、イタリア国ナポリ領の生まれ。1588年来日し、はじめ九州―とくに長崎、平戸で働き、次いで山口、四国に赴いた。1602年から豊後国に入り、1614年、幕府の禁教令で一旦離れたものの、再び豊後に戻り、1618年までルイサをはじめ幾人かの篤信家の保護のもと、潜伏活動を継続した。1619年はじめ頃、高来(肥前島原)に移り、1621年12月、有馬の八良尾で捕縛された。10ヶ月ほど島原城下(アンデレ孫右衛門の家)で監視下にあったものの、その間、多くの信徒を導き、同宿のディオニゾ藤島、ペトロ鬼塚三太夫をイルマンにした。レオン・パジェスは『日本切支丹宗門史』に「豊後の信者も来訪した」と記している。1622年11月1日、島原の刑場にて火炙り刑に処せられ、殉教した。61歳。

 ナバロ師が長年潜伏した豊後を離れ、島原に移ったのは、ルイサの死去と関係している。「るいさ」墓碑に刻まれた年号「元和五年正月廿二日」(西暦1619年3月8日)が、そのまま彼の移動の時期と重なるからである。
 そうすると、ルイサの葬儀を担当した司祭も誰であったか判明する。言うまでもなくナバロ師であった。

■「るいさ」墓碑建立のいきさつ
 また、イエズス会由来の伏碑型キリシタン墓碑が宇目に建立されたのも然りである。ナバロ師が高来(島原)から情報を入手し、そのデザインに基づいて製作されたものであった。形式はもとよりだが、墓碑上面に彫刻された花十字の意匠(註1)、あるいは十字架を立てるための上面に穿たれた四角形の溝穴なども、有馬地方のキリシタン墓碑に見られるものである。
 加えて、夫毛利伊勢守高政(佐伯藩主)から多額の布施が上げられたことは想像に難くない。イエズス会は教会運営のため資産を保有することのできる工夫として、コレジオを長崎、有馬、京都に有していた。葬儀もまた「通常の葬儀」と「特別の葬儀」に区別されて執り行われたようで(註2)、その際、喜捨の額面に対して配慮する必要が生じ、あのようなポルトガル様式の独特のキリシタン墓碑が導入されたいきさつがあった(註3)。
 つまりは、あれほど規模の大きい墓碑が建立される裏には、ルイサ側―毛利高政から相応の喜捨が捧げられた、ということだ。寸法についても多分、高政から申し入れがあったであろう。
 こうして、大名の夫人(妾)に相応しいキリシタン墓碑が割元役・渡辺家をはじめとする地元の関係者によって準備され、あの宇目重岡の山中に設置されたことであった。(つづく)

 【註1】…ルイサ墓碑上面に施された十字架は、一般に「日輪十字章」と言われているが、このような名称は他に使用例がない。意匠の元になったのは、島原半島のキリシタン墓碑にある「花十字紋」である。十字架の四つの先端を碇(いかり)状に装飾し、それによって囲まれる四つの空間が四つ葉のクローバーのようになるので、「るいさ」墓碑はその部分(四つ葉)が強調され、外周は省略された形になっている。浮き彫りにすべき十字架が、逆に陰刻(凹彫り)されたことに起因するものであろう。写真参照。
左が島原にある花十字紋、右が「るいさ」墓碑の十字架紋
   【註2】…『南島原市世界遺産地域調査報告書・日本キリシタン墓碑総覧』(2012、南島原市教育委員会企画・大石一久編集)所収の論考「川村信三・キリシタンの葬送典礼と墓」、同書415頁。
 【註3】…拙稿「ポルトガル様式伏碑型キリシタン墓碑出現の背景」(2015)。

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