■3点の欧文史料に登場する豊後の「ルイサ」は同一人物か
以上、見てきた通り、豊後の「ルイサ」にかんする宣教師の記事は、托鉢修道会ドミニコ会神父オルファネールによるものと、イエズス会による1615・16年度年報、これにコーロス神父による1616年度年報(部分訳)を含めると計3点が確認される。
その時期は、オルファネールの記録が1613年12月。イエズス会のそれは1615年~1616年のことである。その間は約2年、徳川幕府の禁教令発布と、続く宣教師の国外追放事件があり、キリシタン・宣教師が極めて厳しい環境に晒された頃であった。
前述したように、「ルイサ」は一般の信者ではない。「高貴な身分」の婦人であり、しかも、自身および家族の生命の危険を顧みず宣教師を宿泊させ、あるいは匿(かくま)い、扶養した篤信者であった。
封建社会における女性の立場は、現代では考えられないほど低いものであった。そのような時代に一女性が「危険を冒し、自分の責任において」宣教師を匿うことは至難の業であったろうし、ましてや「豊後の国」という限られた地域で、しかも2~3年ほどの間に「ルイサ」の洗礼名で登場する人物が多くいるとは考えられない。同一人物であると見て間違いないであろう。
(※なお、イエズス会文書とドミニコ会文書とで、夫についての記述など、いくらか相違点がある。これについては別途、考察する。後述する付記1を参照のこと。)
以下、「ルイサ」なる人物の特定作業に移りたい。
先ず、これら3つの史料から「ルイサ」という人物の特徴を抽き出してみる。次の4点に絞られるであろう。
■「ルイサ」を特定する4つの条件
①、宣教師を宿泊させ、匿い、扶養した婦人である。
②、高貴な婦人、身分の高い婦人である。
③、ディエゴ加賀山隼人の姉妹である。
④、夫は「イチノカミ(ドノ)」である。
①については、既に述べた。②については、③④を見ていくことで、何故「高貴な、身分の高い婦人」であるか、その理由が判明すると思われる。
先ず③のディエゴ加賀山隼人から見ていこう。
彼は、1601年に豊前国に入封した細川忠興(夫人はガラシャの名で知られる)の家臣で、小倉キリシタン集団のリーダーであった。摂津国高槻の生まれで、10歳の時にルイス・フロイスから洗礼を受け、安土セミナリヨに学んだ。キリシタン武士として高山右近、蒲生氏郷、そして細川忠興に仕えた。1601年、細川氏に従い豊前に至り、はじめ下毛郡の郡奉行であったが、その実力のゆえ国家老に抜擢された。従兄弟の加賀山半左衛門バルタザール(日出の役人)らとともに熱烈なキリシタンであり、やがて徳川幕府の禁教政策に従う藩主細川氏と対立するようになる。藩主忠興が、ディエゴ加賀山隼人の「姉妹」である「ルイサ」とその夫に対して、匿っている宣教師を長崎に追放するよう忠告したという「1615・16年度年報」の記事は、その延長線上での出来事であった。
忠興は最後、自分の領内の家臣であるディエゴ加賀山隼人とバルタザール加賀山半左衛門を1619年10月15日、小倉と日出(ひじ)でそれぞれ処刑した。隼人の「姉妹ルイサ」とその夫「イチノカミ」がこれを逃れたのは、彼の統治圏外―「豊後の国」にいたからであった。もっとも、ルイサは兄弟・隼人と従兄弟・半左衛門が殉教する7ヶ月ほど以前に亡くなっている。
「ルイサ」は、そのようなディエゴ加賀山隼人の姉妹。摂津国高槻出身の高貴な武士・加賀山一族の血を引く女性であり、「高貴な婦人」と呼ばれるにふさわしい人であった。(つづく)
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