2018年6月14日木曜日

欧文史料で読み解く豊後宇目の「るいさ」⑪

在りし日、宇目郷のルイサ…
 ルイサが佐伯藩主毛利高政の妾妻(めかけ)として、秘かに隠れて暮らした宇目郷は、近世時代、岡藩(中川藩主)の領するところであった。ただしその支配体制は、他の村郷が「千石庄屋」で分割統治されたのに対し、宇目郷のみ「惣支配・割元」制が敷かれ、惣支配役深田家および割元役渡辺家に例外として計4千石の支配権が付与された。それは従前、佐伯氏の勢力下にあり、同佐伯氏の家臣深田氏が宇目郷で確固たる支配基盤を有していた歴史的経緯によるものと考えられる(註1)。
 仕組みとしては岡藩領でありながら、深田氏を介して、実は佐伯藩とも連携していた…宇目郷はそのように、微妙な境目に位置する山村であった。
 1617年(元和3)、コウロス神父が徴収した文書のうち「豊後国なんぐん(南郡)」の署名簿に、「渡辺孫助志門(シモン)、Vatanabe Magosuqe Simon」の名前が見える。彼は宇目郷割元役渡辺家の一族であっただろうか。信心会(コンフラリア)の組親(くみおや)として、キリシタンたちの世話をしていた人物である。
 半田康夫氏が「るいさ」の夫として想定した渡辺善左右衞門は、たとえ夫でなかったとしても、ルイサの理解者であり協力者であったことは間違いない。何より渡辺家墓地の裏山に、あの「るいさ」を祭り、先祖たちが墓守をしてきた(であろう)ことが、それを物語っている。

 宇目郷は「江戸時代、隠れキリシタンの安住の地であったらしい。」―『宇目町誌』編纂に携わった渡辺澄夫大分大学名誉教授(当時)は、同誌巻頭言で、こう述べている。禁教令下、キリシタンにとって安住の地はおそらくなかったであろうが、「イチノカミ毛利高政」と「ルイサ」によって守護されたこの山村は、あるいは安住と言える世界があったかもしれない。
 
 ―あとがき―
 2018年5月、重岡の山道に野アザミの花が咲くころ、筆者は宇目出身の「某氏」に案内され、はじめて「るいさ」の墓前に佇んだ。ちょうど大分地方が梅雨入りした日ではあったが、前日までの雨もあがり、木洩れ日が墓碑とその周辺を照らしてひかり、初夏のさわやかな風が聖霊のように吹きかけてきた。
 ルイサと毛利高政―キリシタン信仰によって強く結ばれながらも、それを知られてはならなかった禁教下、宣教師を匿い、キリシタンポロシモらの信仰を守るために、もろもろの困難と耐えがたい境遇を厭わず奔走した。その生き様は、「たとえどのような危険があろうとも、私どもは真心を込めて伴天連さまにお仕えいたします。」(註2)と、ルイサがイエズス会宣教師に書状をもって伝えた、あの誓いの言葉そのままであったと思われる。
 「元和五年正月」(1619年3月)、あるいは雪が降っていたかもしれない厳寒の日に、ルイサは逝った。
 この墓碑は、規模からして、たしかに夫毛利高政が指図して準備したものに違いない。人は「何故、このように大きなものを―」と言うが、それは、ルイサが大名の夫人として逝ったことを後世に伝えるものではなかっただろうか。墓碑であると同時に、二人の絆を証明する記念碑であった、と筆者は受けとめた。(つづく)
2018年初夏、「るいさ」墓地のたたずまい。筆者撮影。

 【註1】…『宇目町誌』(1991・宇目町発行)第三章近世の宇目郷―第一部岡領宇目郷の成立(196-205頁)。 
 【註2】…『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅱ期第2巻(1996年・同朋社出版)、221頁。
 
 
 

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