2015年7月7日火曜日

桑姫御前の謎①

 前稿「キリシタン志賀一族ほか長崎に至り②」でふれた「於西御前」は後世、「天女」または「桑姫」と称され、その事蹟を刻んだ記念碑が現在、長崎市内の淵神社境内にある。一つは文政12年(1829)に志賀親善、薬師寺種成、同種文、吉岡親平、蘆茢純房らが建てた「天女廟碑」(橘元一撰文)。他の一つは天保8年(1837)、庄屋志賀親善が当初、竹之久保尾崎に建立し、のち法入、さらに淵神社境内に昭和11年(1936)に移設された「桑姫御前塚」(現桑姫社)である(註)。
 このうち「天女廟碑」については、史料「志賀家事歴」に「其の後、当初の氏寺真言宗宝珠山萬福寺本社の後に(桑姫御前の)御霊儀の地蔵尊を一体、先祖ども建立仕る」と記載される事歴に係わるもの。また「桑姫御前塚」は、「塚」が墓石を意味するので、死者を葬った墓碑であったと思われる。
 これら二つの石碑建立が当人の逝去から200年余り遅れたのは、当時「御法度」とされたキリシタンであったからに他ならないが、6~7代を経てなお、志賀家ら旧大友家家臣がその事蹟を詳細に伝え、巨大な「廟碑」を建てたのはそれなりの理由があったものと思われる。

 筆者は、隠された訳を探すべく現地に取材した。そして、庄屋志賀家墓地の始祖「志賀親成(宗頓)」および初代庄屋「志賀親勝」の墓碑に、「二君(始祖・宗頓と初代庄屋・親勝)嘗て桑姫を奉ること甚だ篤し」、とあるのを見つけ、桑姫御前が志賀家にとって特別の存在であったことを再確認した。(つづく)

 ※註…この時点で筆者は「塚」と「石祠」を混同していた。「塚」は志賀家屋敷内に当初から祀られ、天保8年(1837)になってその石祠が製作された。詳しくは後述する。
 
「桑姫御前塚」を祀る淵神社境内の桑姫社

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