史料『志賀家事歴』には、「於西御前」の「塚」の傍らに「桑の一本」を植えたことのみが記され、一般に「桑姫」の由来とされる養蚕についてはふれていない。マダレイナ清田は1622年、宣教師を匿った廉で自宅監禁となり、1627年、生きながら火炙りの刑に処せられた。おそらく、養蚕に係われる状況ではなかった、と思われる。
筆者は、塚の傍らに桑の木を植えた理由として、1605年に病死した大友宗麟の孫娘(宗麟次女テクラの娘)―修道女マセンシアとの関係を指摘したい。
マセンシアは宗麟の後室ジュリアとともに長崎に逃れ、誓願を立てて修道生活を送る途次、18歳の若さで昇天した。その事蹟を伝える「フェルナン・ゲレイロ編イエズス会年報集―1605年日本の諸事」によると、キリストの花嫁として生涯を捧げたマセンシアの「世俗のすべての奢侈(しゃし)や虚飾を軽んじ」、「断食や鞭打ち」の苦行に打ち込んだ「峻烈」なまでの修道生活の様子が描かれているが、その中に祖母ジュリアに願い、「一日」だけ「絹(の服)を纏った」逸話が挿入されている。この世の楽しみなど何一つなかったマセンシアにとって、それは女性として味わったただ一つの慰めであり、喜びであったと思われる。
マセンシアは宗麟の次女テクラの娘、一方、マダレイナ清田は宗麟の長女ジュスタの娘であった。マセンシアと二従姉妹になるマダレイナ清田が禁教下、ドミニコ修道会の信者として再改宗し、在俗修道女の道を選択したのは、18歳で逝ったマセンシアの修道女としての生き方が一つの契機となったにちがいない。
マセンシアの遺志を、マダレイナ清田が継承し、そして、「寛永4年(1627)」殉教の栄冠を勝ち取った。それらの、大友家「姫君」たちのキリシタン信仰にまつわる奇特な生き方が、志賀家、薬師寺家ら大友遺臣たちの心に深く刻み込まれ、「天女」となったマダレイナを讃え、慰めるため桑の木を塚の傍らに植えたのは、考えられることである。
殉教日が和暦の「七夕」の日(7月7日)であったことも、マダレイナと「棚機(七夕)姫」とを結びつける縁となったであろう。修道女として清貧に暮らし、天界に旅立った大友家の「姫」マセンシアが、一日だけ絹の着物を纏って聖母マリアに感謝し「慰安の涙にくれた」―そのような記憶がそのまま殉教者マダレイナ清田に重ねられ、絹糸を作る蚕の餌となる桑の木を塚の傍に植えた、ということだ。そのこころは、天界に逝ったマダレイナに、せめて命日の七夕(たなばた)の祭日一日だけでも絹の着物を着せて慰めてあげたい、というものではなかっただろうか。
あからさまにキリシタン殉教者を実名をもって祀ることができなかった禁教令下の藩政時代、マダレイナ清田を「桑姫」と呼び、「天女」と称して御霊(みたま)を萬福寺境内に祀った関係者一同の、キリシタン信仰にまつわる秘史がここにある。
萬福寺(現淵神社)は、「長崎名勝図絵」の挿絵で見ると、寺院でありがら鳥居が据えられている。そのうちのいずれかには多分、マダレイナの命日(殉教日)である七夕の日(7月7日または8月7日)が刻まれているはずである。
※付記…この論考は未完である。続編として「桑姫再考」№①~⑧(本ブログ2017年11月29日ー12月12日記)に、その理由と結論を記したので参照されたい。
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