長崎に避難・移住したこれら大友一族の女性キリシタンたちのうち、「―姫」と呼ばれ、崇敬の対象となりうる人物とは、言うまでもなく大友氏直系の「子孫」であり、「殉教者」でもあるマダレイナ清田であろう。
殉教者は、これを弾圧した幕府にとっては大罪人であるが、キリシタン信者にとっては信仰の勝利者として、崇め称えられる聖なる存在であった。殉教者の遺物が、遺骨はもとより焼き灰に至るまで信者たちがこれを掻き集め、聖遺物として大切にした話は、宣教師たちの書簡・報告書にたびたび登場する。そのようなキリシタン信仰上の意味からすると、殉教者であるか否かは、桑姫特定の重要な判断材料になることが理解されるであろう。
前述したように、マダレイナ(マグダレナ)清田は「聖ドミニコ会第三会」の会員として殉教した。これに関して聖ドミニコ修道会の岡本哲男司祭は、著書『日本ドミニコ会殉教録―信仰の血証し人』(1988・聖母の騎士社刊)で次のように述べている。
「荘厳誓願を立てた会員…マグダレナ清田(1627年殉教)、豊後の領主フランシスコ大友宗麟(1530―1587)の家系に属する子孫である。彼女の夫の死後、ドミンゴス・カステレット神父によって聖ドミニコ信徒会員として受け入れられた。宣教師たちを自分の家に泊めた理由で、1627年8月17日、長崎において生きながら火あぶりの刑に処せられた。1867年7月7日、ピオ9世によって列福された。」(前掲書267頁)
「荘厳誓願を立てた会員」とは、「神に捧げられたいけにえとして自己を全面的に奉献し、それにより、その全存在は、愛における神への絶えざる崇敬となる」人、すなわち生涯を神に捧げて生きる修道女のことである。マダレイナ清田はおそらく、夫との死別後、在俗の修道女として誓願を立て、「信仰のため死ぬ覚悟をもって」生きていたであろう。
◇迫害に立ち向かったドミニコ修道会
ドミニコ修道会は幕府が禁教令を発した直後から、その対策として迫害に備えるための信心会(コフラディア)を結成し、「転び」の「立ち上げ」(再改宗)に尽力した。そのため、一般の信心会である「尊きロザリオのコフラディア」、「イエズスの御名のコフラディア」などとは別に、「迫害に立ち向かうエリートの組」を組織する必要があった。「それは男の組と女の組に分けられ」、迫害の期間も「説教が全く欠けるということがないように」ある家に集まり、「そこで信仰書を読み、また断食・苦行および相互間の平和や愛の規則を定め、迫害に際してはお互いに励ましあい、最期には教えを棄てるというよりは神の御心に従って死ぬという定め(規則)」を作った。「率先して宣教師を匿う」というのも会員たちの任務であった。
「自分の家に宣教師たちを泊めた」マダレイナ清田もまた、その使命に生き、殉じた一人であったと思われる。(つづく)
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