最後に、志賀家の伝承において、史実と一致しない二点について述べたい。「宗麟の孫娘」であるマダレイナ清田を「義統の二女」としてきたことと、命日(殉教日)のこと、である。
前者については、母ジュスタが大友義統の支配下にあった清田家に嫁いでいるので、清田家の主君であった宗麟の子・義統を取った、と考えられないであろうか。伝承における誤差の許容範囲とみたい。また、キリシタン色をできる限り払拭しなければならなかった江戸時代、キリシタン大名としてその名が知られた父宗麟よりも、政治的失策で失脚した子義統の娘とする方が都合がよい、とする心理も働いたものと思われる。
◇7と8が東西で交錯?
後者の没年については、「西暦1627年8月17日」、和暦で「寛永4年7月7日」がマダレイナ清田の殉教日であった。これに対し、志賀家が記念するその日は「寛永4年8月7日」である。1627年(寛永4年)では一致しているものの、日付けが正確ではない。それは、たとえば七夕(たなばた)祭りが陰暦7月7日であるのに、実際は8月7日に実施する習慣があることと似ている、と言えないだろうか。これも、許容される誤差とみたい。
ちなみに、マダレイナ清田が教皇ピオ9世によって列福されたのは「西暦1867年7月7日」である。和暦の殉教日「7月7日」と重なっているのは偶然であろうか。7と8とが東西で微妙に交錯しあっている。
「桑姫御前」は、「寛永4年」に殉教した大友宗麟の孫娘「マダレイナ清田」とみて間違いなさそうだ。
天保8年(1837)、大友家遺臣らが長崎淵村尾崎竹の久保に建立した「大友家桑姫御前塚」(「長崎名勝絵図」)。明治33年に建てた記念の石碑に「奉納桑姫君。寛永四年ヨリ尾崎地(に)安座致し、春秋ニ御祭礼致す」とあるので、それ以前、マダレイナ清田(桑姫)を秘かに祭り、殉教の遺徳を偲ぶ行事を「寛永4年(1627)」から春秋、継続していたものと思われる。 |
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