言うまでもなく、キリスト教が「御法度」とされた徳川時代、キリシタンは大罪人であり、殉教者はもとより隠れの信者にいたるまで死者の墓碑を建てることは憚られた。それゆえ隠れの信者たちはこれを山中とかに隠蔽するか、何か別の名称をもって祀る以外方法はなかった。
◇大友家桑姫御前塚
志賀家が伝える史料『志賀家事歴』によると、「於西御前」が「逝去遊ばされ候」後、竹の久保尾崎の志賀家「屋敷の内に葬り奉(まつ)り、一塚を築き候て、桑の一本を植え、桑姫御前と號(ごう)を贈り」、「参詣」した、という。
「塚」とは墓石のことであるので、「大友家桑姫御前塚」と刻まれた、例の自然石の墓石のことであろう。これは竹の久保尾崎の志賀家屋敷にあり、明治33年(1900)志賀親朋氏によって「法入」に遷され、さらに昭和11年(1936)淵神社境内に移設された。こんにち「桑姫社」の名称で奉られた社殿の基壇部に据えられているそれである。
一般にこの「塚」は、桑姫社の由来を記した石祠(明治33年建立)に「天保8年(1837)淵村の十世即吾祖父親善君が尾崎の旧塋(塋=境をめぐらした墓地)に卜(ぼく)し、石祠を築く」とあるので、それと混同して紹介されることが多い(筆者もその一人であった)。「祠(ほこら)」とは、仏像や神像等を納める家型の構造物であるから、それまで自然石の「塚」であった桑姫御前の墓石を、天保8年(1837)になって石祠をこしらえ、その中に納めて尾崎の志賀家屋敷から墓地に移した、という意味である。述べたように、これはその後、二転、三転して淵神社境内に現存する。
◇「御霊儀の地蔵尊」と「天女廟碑」
『志賀家事歴』にはつづいて、「其の後、当初氏寺真言宗寶珠山萬福寺本社の後ろに御霊儀の地蔵尊を一体、先祖ども建立仕り、今に怠りなく参詣礼拝仕り候」、とある。「御霊儀の地蔵尊」とは、「於西御前の御霊儀」を祭るものであるが、それが「萬福寺」すなわち今日の「淵神社」の後方に祭られていた、と言うのだ。
中世、真言宗寺院であった萬福寺はキリシタン時代(天文年間)に破却され、寛永11年(1634)に再建された。同寺(淵神社)の由緒によると、再建された萬福寺の鎮守社として「弁財天」を祀った、とあるので、それと関連するものであろう。
文政12年(1829)に大友家遺臣らが今の淵神社すなわち萬福寺の敷地に巨大な「天女廟碑」を建立した史実は、そこが「天女」すなわち「殉教者マダレイナ清田の御霊儀」を祀る神聖な場所であったことを裏付けるものである。
―そうであるなら「殉教者マダレイナ清田」は、大友家の姫としてその真実の名前こそ隠されたが、「弁財天」もしくは「天女」の名称でキリシタン禁教の時代、淵村萬福寺の一隅に祭られ、一族の崇敬を集めていたことになる。
イエズス会宣教師マテウス・デ・コウロスの「報告書」に見える、1619年に幕府によって破壊された教会の名を上げた中に、「(長崎の)港の向かい側の稲佐といわれるところにあった教会」が出ている(註)。萬福寺(現淵神社)の境内はキリシタン時代、一つのキリスト教会が存在した場所であったとも考えられる。―であれば、そこは殉教者マダレイナ清田を祭るにふさわしい聖なる地であったに相違ない。(つづく)
※註…結城了悟著『九州キリシタン史研究』(1977、キリシタン文化研究会発行)147頁。
藩政時代、殉教者マダレイナ清田の「御霊儀の地蔵尊」が祀られた萬福寺(現淵神社)の風景(『長崎名勝図絵』)。キリシタン時代、ここに教会が存在したとも考えられる。 |
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