したがって、志賀氏が篤く信奉する桑姫は、主君大友宗麟の遺児またはその血を引く女性にして、後世まで記念して伝承されるほどの、キリシタン信者としてのある特別の価値を有する女性でなければならないであろう。それは、志賀宗頓(親成)自身がかつての領国―志賀一族が支配した豊後国竹田―において、稀にみる熱心なキリシタンであり、竹田の領主志賀親次ドン・パウロを周囲の反対の中で受洗に導いたことからも窺える(註1)。
◇長崎に移住した大友一族のキリシタン女性たち
ほとんど知られていないことだが、志賀宗頓(親成)の妻は、主君大友宗麟が後室として迎えたジュリア夫人(=宗麟の次男親家の妻の母)の連れ子(洗礼名=コインタ)であった(註2)。「寛永年間」、志賀宗頓(親成)が肥後国八代を経て長崎に移住したとき、妻コインタも―生きていたとしたら―同伴したにちがいない。
長崎には、コインタの実母である宗麟の未亡人ジュリアがいた。彼女は、宗麟の娘テクラ(正室・奈多鑑元女の子)の娘マセンシアとともに1600年頃、長崎に避難して来ていた。在俗修道女の道を選択したマセンシアが修道の途次1605年、病に倒れたあと、ジュリアはどうしていたのか。実の娘コインタが夫志賀宗頓らとともに来崎したとき、両者は互いに助け合って禁教下の困難な時代を生き抜いたに相違ない。
そこに、もう一人「大友宗麟の子孫(孫女)たる」マダレイナ清田が存在したことは、彼女が1627年8月17日(寛永4年7月7日)、長崎で殉教した史実によって知ることができる。
レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』によると、マダレイナ清田は「30歳で寡婦となり、長崎に(1600年前後頃)追われて来た。デ・トルレス神父は彼女の家でミサを立てた。これにより彼女は自宅に監禁され、1622年から1627年まで4年間をすごした。殉教したとき、58歳であった」。(つづく)
※註1、註2…「1582年2月15日付、長崎発信、ガスパル・コエリュのイエズス会総長宛、1581年度日本年報」。「1584年1月2日付、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛、1583年度日本年報」。
桑姫社の花生けに彫刻された大友家家紋「抱き杏葉」 |
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