日本人嫌いで知られたキリシタン時代のイエズス会宣教師フランシスコ・カブラル師は、こと大友宗麟にかんしては例外であったらしい。「1581年9月15日付、フランシスコ・カブラルのイエズス会総長宛書簡」には、政治家であり超一流の文化人であった宗麟が度重なる試練―島津氏による攻撃、国内混乱等―のなかデウスに一言の不平をも漏らさず、むしろ「すべての騒乱を自らの罪に帰す」彼のキリシタンとしての「善良」性、「実直」性を認め、まるで旧約聖書に出て来る「ヨブ」を見るようだ、と評している。
宗麟は受洗(1587年8月28日)の直前、「生きた信仰とは何か、死んだ信仰とは何か」、「悪魔がデウスの教えに背かせようとして人間を誘惑する際には、如何なる計略によるか―」とルイス・フロイスに質問したことがあった。
戦う武士として「敵を知る」ことは兵法であったことからすると、彼にとってキリスト教は目に見えぬ「敵(悪魔)」の戦略を教えてくれる兵法であり、この世とあの世を繋ぐ「道」であったと思われる。
受洗後二ヶ月にして遭遇した国を失うほどの大試練―耳川の戦で大敗を喫し、多くの家臣が謀叛して国内が混乱したときも、彼はその責任をデウスに転嫁するすることなく、かえって「すべての騒乱を自らの罪に帰」してその罪を「告白」し、「修行」を求め、キリシタン信仰を強固にした。
松田毅一氏とともに『フロイス日本史』を完訳された川崎桃太氏は、著書『フロイスの見た戦国日本』(2003・中央公論社)で、宗麟の信仰を次のように紹介している。
「合戦での敗北、敵の侵入と領土の破壊、家臣の謀叛と離反、それらはみな宗麟がキリシタンに改宗してから起きている。南蛮人との交流が単なる貿易目当てのものであったならば、彼らとの関係はとっくの昔に終わっていなければならない。領土の不幸は領主が神仏を捨てた罰だ、といわれながら宗麟の宗門への帰依はますます深まっているからだ。宗麟が求めたものは貿易を越えた何かであった。……現世を人生の最終目的としないデウスの教えのなかに、選ぶべき価値の基準が示されている。それによると、人生に生じる失敗、敗北、苦しみはデウスを存在の目標に置く魂にとって、試練であっても、不幸ではない。灼熱の火に磨かれる黄金のように、試練を通して信仰は鍛えられ、完成される。…宗麟はすでにその心境に達していた、との証言がある。彼と4年間宇津見(津久見?)で過ごした伴天連ラグーナである。…」(同書111頁)。
ラグーナ師のみならず、日本人を差別して憚らなかったカブラル師をして低頭せしめた宗麟のキリシタン信仰は、ホンモノであったと言えるだろう。
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