ドン・パウロ志賀親次がキリスト教信仰にふれた最初は、国主大友家から追放されて志賀家に仕えていたイサベルという教名をもつ娘であった。彼女はもと、大友宗麟の娘に仕えていたが、何らかの不都合があったものと思われる。「国主の娘によって追い出された」、とイエズス会「1583年度日本年報」は伝えている。当時、志賀親次は「12,3歳」。娘が唱えるキリシタンのオラショと敬虔な信仰態度に惹かれ、祈りの言葉を書き取り、暗記するようになっていた。
この頃、父は親次を「国主(宗麟)の姪」(田北鎭周の娘)と結婚させた。その(姪の)乳母がキリシタンであったため、乳母もまた親次に「デウスのことを知る限り教えた。」(ルイス・フロイスによる「1583年度日本年報」)。
加えて、父方の「伯叔父」に、当時豊後国で「善良なキリシタン」として知られた「林ゴンサロ殿」がいたことも幸いした。「林ゴンサロ殿」は『志賀家系図』(長崎歴史文化博物館蔵)によると、親次の父―実は長兄・親孝―の舎弟・宗頓(むねはや)であり、「宗麟の義理の娘」すなわち宗麟新夫人ジュスタの連れ子(教名・コインタ)を妻としていた。志賀家から「ほぼ1里のところ」―久住・下地村に居宅があったらしい。この林ゴンサロ(宗頓)・コインタ夫妻が親次の受洗はもとより、親次がその後、「右近」的存在として活躍する影の立役者であったと思われる。
一方、「熱心な偶像崇拝者」であった祖父・親守と、親次の父母―すなわち親次の長兄・親孝とその妻(大友宗麟の正室イザベルの娘=イサベルと前夫の間の娘)は、つねにキリシタンの敵として親次の行動を妨害した。しかし、島津氏の豊後侵攻と国主宗麟の死去に伴う国内の混乱、危機的状況における武将親次の対島津戦での活躍と秀吉の信任等により、次第に彼らの反キリシタンの姿勢も崩壊し霧散していったようだ。
なお、イエズス会史料と邦文史料(『志賀文書』、『志賀家系図』、『志賀家事歴』など)とで、幾分か食い違う志賀親次を取り巻く系譜的相関関係は、次のように整理することができる。
◇志賀安房守親守(道輝)は、親次の「祖父」ではなく実父であった。
◇親守(道輝)の子に、親孝(民部大輔親度)、宗頓(掃部介親成、林ゴンザロ殿)、親次(小左衛門親善)らがいる。このうち親次は長兄親孝の養子となり、本家の家督を継いだ。
◇したがって、イエズス会史料に親次の「伯叔父」として登場する「林ゴンサロ殿」すなわち志賀宗頓は、同家系図で言うと親次の「実兄」になる。
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