◇親次の消息
1593年、国主大友義統の改易にともなって親次も所領を失った。それでも、島津征討(1587年)での際立った功績等により、秀吉の親次に対する信頼は大なるものがあったらしい。「文禄5年(1596)3月11日」付で「日田郡大井庄内」に千石の扶助を秀吉から給された(「志賀文書」)。
日田はこの頃、秀吉のかつての仲間であった森勘八(のちの毛利高政、若い頃、大坂で受洗)が領有していたので、森氏の日田藩に預けられたとも考えられる。ルイス・フロイスの「1596年度日本年報」には、領主森勘八がしばしばドン・パウロ志賀親次を呼び寄せ、「家臣たちに(デウスの)教理を聴かせ、教会建設のことなど話した」ことが記されている。
1600年、関ヶ原戦の後、徳川家康の天下となり、日本の領主・領国地図は大きく塗り変えられた。福島正則が安芸・備後の二カ国の国主となると、彼は「豊後の古くからのキリシタンの貴人である入江左近と、(志賀)ドン・パウロ(親次)を己が家臣」として迎え入れた(「1600年度日本年報」)。福島が親次に与えた知行地は、「ぬか郡しほはら村、とよた郡上北かた村、ぬか郡こくし村」などあわせて千石余(「志賀文書」)。しかし、ここでの生活はわずかに一年余り。「慶長7年(1602)9月3日」には小早川秀秋(秀詮)に抱えられ、「美作国の北条郡福田村内および山手村内、豊前国の赤坂郡東中村内と和気郡三石村内」に同じく千石を賜った(前掲史料)。小早川秀秋はその直後、慶長7年10月に逝去しているので、定住したとは考えられない。
このあと親次はいかなる人生を送ったのだろうか。一説に、細川藩に移ったとの情報もあるが、記録史料が手許にないので断定しえない。
◇志賀宗頓の消息
一方、「林ゴンサロ殿」志賀宗頓については、『志賀家事歴』に詳しく述べられている。
大友家改易後、家臣のうちキリシタン浪人の多くは一族戸次(べっき)氏が養子となった筑後柳川の立花氏を頼ったようだ。宣教師ルイス・フロイスは、1595年頃「その城(柳川城)には約100人のキリシタンがおり、いずれも身分の高い人たちで、豊後の国の出身である」、と『日本史』(12)に記している。
志賀宗頓もその中にいた。「柳川立花家を相頼り候て、罷り越し候」、と『志賀家事歴』にある。
「それより肥後八代へ罷り越し」た。「細川三斎、八代の城へ御座成られ候」とあるので、寛永9年(1632年)前後のことであろう。居候であり、留まる理由も別になかったと思われる。「寛永の頃」長崎に向かい、「浦上村の内、竹之久保尾崎屋敷に閑居」した(前掲史料)。
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