洗礼を志願しながら周囲の反対によって7年間延期され、ようやく1585年、極秘裡に臼杵のコレジオで受洗した彼は、なおも反対する祖父志賀道輝(親守)の前に、「私が名を賜ったサン・パウロは、その信仰の告白のために死んだが、私もそのために死にたいと明言する。必用な場合には、わずか一人の従僕を伴い、首にロザリオを掛けてこの国から出、追放される準備ができている。」と述べた(「1585年8月20日付、ルイス・フロイスの書簡」)。
彼の武勇は翌1586年、島津氏の日向・豊後国進攻戦で証明され、周知されることになる。大方の大友軍家臣団が大敗を喫して島津方に降伏するなか、ドン・パウロ志賀親次はひとり最後まで抵抗し、関白秀吉の島津討伐軍につないで領国竹田(岡城)を失わなかったのだ。
この戦で敵兵が一万田城を包囲したとき、ドン・パウロ志賀親次はキリシタン武将として、ある特異な行動を執った。敵兵の中にドン・ジョアンと称する天草のキリシタン領主がいることがわかり、信仰の友として彼の助命を試みたことである。双方のやり取りがあり最後、降伏を条件に天草殿ドン・ジョアンら天草五人衆全員の命を許し、無事に肥後の安全な場所まで連れて行ったが、五人衆のひとり大矢野殿はドン・パウロ志賀親次に恩を感じ、家臣らとともにキリシタンになった。日本戦国史における武士道キリシタンの美談として、異彩を放つものであろう。
こうして武勇とキリシタン信仰の両面で名声を高めるに至った彼は、次第に宣教師の間でも注目され、ルイス・フロイスは彼について、「我らの主が国主フランシスコ(大友宗麟)を御許に召し給うとき、豊後の国においてはドン・パウロが一つの強力な円柱となろう。」と述べている。
その預言はすぐに的中した。国主フランシスコ大友宗麟が同戦の最中(同年6月11日)に亡くなり、次いで秀吉が7月24日、突如「伴天連追放令」を発布して国外退去を命じたため、国中の宣教師たちが避難を余儀なくされたとき、彼は危険を犯して領内に宣教師を匿ったのだ。
有馬の国主ドン・プロタジオ/ジョアン有馬晴信が死を覚悟して宣教師と神学生、避難してきた多くのキリシタンを領内(島原半島)に受け入れたことは知られている。ドン・パウロ志賀親次も同様の行動をとった。
「イエズス会1588年度年報」に、志賀親次が「大きな危険を招来するものであろうが、拙者は伴天連がたをわが領内に匿う」と主張したことが記されている。主張するだけでなく実際、彼は宣教師たちを匿ったことは、巡察使ヴァリニャーノ師が1592年に執筆した『日本諸事要録補遺』に、「司祭たちは関白殿(秀吉)が(文禄の役で)来ていたこととも関連して、たびたびこの下(しも=肥前地方)に戻って来ていたが、ほとんど常にドン・パウロの領国(豊後国竹田)にいたのである。」とあるのを見ても、明らかであろう。
有馬の国主ドン・プロタジオ/ジョアン有馬晴信が死を覚悟して宣教師と神学生、避難してきた多くのキリシタンを領内(島原半島)に受け入れたことは知られている。ドン・パウロ志賀親次も同様の行動をとった。
「イエズス会1588年度年報」に、志賀親次が「大きな危険を招来するものであろうが、拙者は伴天連がたをわが領内に匿う」と主張したことが記されている。主張するだけでなく実際、彼は宣教師たちを匿ったことは、巡察使ヴァリニャーノ師が1592年に執筆した『日本諸事要録補遺』に、「司祭たちは関白殿(秀吉)が(文禄の役で)来ていたこととも関連して、たびたびこの下(しも=肥前地方)に戻って来ていたが、ほとんど常にドン・パウロの領国(豊後国竹田)にいたのである。」とあるのを見ても、明らかであろう。
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