フランシスコ大友宗麟の嫡子・コンスタンチイノ義統(よしむね)がキリシタンになったのは、「自らの意志によると言うよりは、黒田シメオン官兵衛殿の執拗な勧めによるものであった。」(「イエズス会1588年度年報」)。
父宗麟が1587年6月に亡くなり、翌7月に秀吉が伴天連追放令を発布してキリシタン攻撃に着手すると、案の定、彼は信仰を棄て、田原親賢(宗麟の正室奈多鑑元女の兄弟)らとともにキリシタン迫害に転じた。これに対し、ドン・パウロ志賀殿は、妻マダレイナ、伯叔父にあたる林ゴンサロ殿とその妻コインタらとともに「巌のように」揺るぎない信仰を堅持し、殉教覚悟で宣教師たちを領内に匿った。
秀吉が伴天連追放令を出したあと、ジュスト高山右近に棄教を迫り、これに対し右近が潔く領国と財産を放棄してキリシタン信仰を貫いた話はあまりにも有名である。ドン・パウロ志賀親次もその決意において右近に引けを取らないものを持っていた。それは、彼とその妻マダレイナが「自分たちは高山右近殿の行為に負けぬ」とモレイラ師、フランシスコ・パシオ師らに語っていた(前掲史料)ことからも理解されるであろう。西の右近と称された所以である。
ところで、彼が日本キリシタン史の一柱石的存在としてイエズス会史料に綴られるのは、受洗した1585年から1593年までの、わずか8年間であった。国主大友義統とともに文禄の役で失態を演じたことから、秀吉の怒りを買って国主は改易処分、ドン・パウロ志賀殿も「所領を失った」。「日田に近い地」で2000俵の禄を受け、その後、安芸の福島正則に抱えられたとイエズス会史料は記録している(「ルイス・フロイスの1596年度年報」)が、最期、何処でどのように生涯を閉じたのか、わからない。
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