2015年4月2日木曜日

摩耗した花十字紋瓦片が物語る島原の乱

 花十字紋瓦は、ほかに、鹿児島市の鶴丸城跡二の丸の池の中から見つかった事例が報告されている以外、ほとんど確認されていない。ただし長崎県内で、大村純忠の居城・三城の城下(同市乾馬場)から一個、南島原市の有馬晴信の枝城・原城本丸から三点が見つかっているが、それは手に握れるほどの分割片であったり、外周を意図的に欠いて中央の花十字のみを取り出していたり、断面が摩耗するなど、信仰の聖具として人の手に触れられ、使用された形跡があり、信者が他所―破壊された長崎の教会跡など―から拾い、持ち込んだものと考えられている。

 たとえば、原城本丸大手門で出土した3個の花十字瓦断片は、原城が文禄・慶長の役後1600年前後に再整備され、1605年の台風で壊滅的被害を受けて使用されなくなった経緯からすると、そこに何らかのキリスト教関係の施設があった遺物と言うより、1637―38年の事件・島原の乱で多数の「立上り」キリシタンが籠城した際、彼らが信仰の聖具として身につけ、持ち込んだものであった可能性が高いであろう。

 1612年、キリシタンの「擁護者」プロタジオ/ジョアン有馬晴信を失った同地のキリシタンは「逼塞(ひっそく)」を余儀なくされ、4半世紀(25年)を耐え凌いだ。1637年、「最期」の決心をして原城に結集したとき、彼らの多くは手に持つ聖具もなく、鉛の鉄砲玉を現地で鋳直して稚拙な逆さ十字架をつくり、それを一つの頼りとして三ヶ月、真冬の凍えるような風雪にさらされながら「悲しみ節」の償いをした。彼らは、そのように貧しく、たくましく、素朴であった。
 摩耗痕のある花十字瓦の断片は、それらを物語る小さな証拠物である。立派な金属製の十字架より、むしろ島原・天草の農民キリシタンにふさわしい聖具であったように思われる。
                
原城本丸大手門で見つかった「摩耗した」花十字紋瓦
                    
 

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