軒丸瓦の「花十字」意匠
正四角形の十字架を花形にあしらう「花十字」の紋章は、日本独自のものであろうか。意匠の意図は、西洋ゴシック建築に見られるステンドグラスの「バラ窓」と似ているように思えるが、日本のそれは単純化された美しさがある。代表事例は、長崎県島原半島に集中分布する伏碑型ポルトガル様式キリシタン墓碑のそれであろう。
他にひとつ、キリシタン時代の教会およびその関連施設の屋根に使用された軒丸瓦の意匠がある。これは、一般に「花十字紋瓦」と称され、1990年代から実施された長崎市内の発掘調査で見つかった。これまで万才町(旧島原町)、興善町、勝山町など16世紀後半から17世紀初頭にかけてキリシタンの町が形成された内町(うちまち)および外町(そとまち)の範囲で確認されているが、圧巻は勝山町のサント・ドミンゴ教会跡で見つかった、おびただしい数の「花十字紋瓦」である。
サント・ドミンゴ教会は、スペイン国を布教保護国として西廻り航路でフィリピン・マニラを経由して来日した托鉢修道会ドミニコ修道会の教会だ。1602年、甑島(鹿児島県)に上陸し、その後、川内市(京泊)を経て1609年、長崎の勝山町に教会を建てた。代官村山等安(元イエズス会信者)とその息子アンドレス村山徳安がこれを熱烈に支持し、豊かな免償(インズルゼンシア)を有する同修道会の信心会「貴きロザリオの組」がにわかに浸透した。商取引や政治活動に一切関与しない清貧の修道生活と、貴賤(きせん)、貧福(ひんぷく)、老若男女、身分の高下に関係なく手を差し伸べる慈愛が、当時の、とくに社会の底辺で生きる人々に好感をもって受け入れられたようだ。「転(ころ)び」キリシタンの「立ち上げ(=再改宗)」に熱心に取り組んだのも、彼ら托鉢修道会の宣教師たちであった。
内町を拠点とするイエズス会が、その対処に苦慮したのは言うまでもない。
同じ長崎町出土の「花十字紋瓦」ではあるが、イエズス会の慈善施設(ミゼルコルディア)があった内町万才(島原)町のそれと、勝山町サント・ドミンゴ教会跡のそれとは、遺物につながる歴史・物語の背景が違う。(写真=長崎市勝山町、サント・ドミンゴ教会跡資料館展示の花十字紋瓦)
1614年「禁教令」以降、長崎キリシタン史はそれまでのイエズス会中心からフランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会等の托鉢修道会信仰に移行するという事実がある。それがいかに「瞠目すべき」ことがらであるか、イエズス会の記録がこれを無視したことにより今もって日本のキリシタン研究はその認識に至っていない。ただ一人、東京大学史料編纂室の岡美穂子助教を除いて―。
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