…寛永15年2月28日(西暦1638年4月12日)「(原城)本丸でキリシタンが自害したことは、私の配下の者共(細川藩の兵士たち)が多数見たことでございます。小袖を手に掛けて、焼け申しておりました。燠(おき)を手で上に押し上げて、その内に入った者も多くありました。また、子どもたちを燠の中に押し込み、その上に上がって死んだ婦人も多くございました。」…
島原の乱における「立上り」キリシタンの最期の姿を目撃した肥後細川藩士の記録『綿考輯録(めんこうしゅうろく)巻48』に出てくる叙述である。その筆者は、続けて「下々の卑しい者たちではありますが、なかなか奇特(きどく=類い稀な、殊勝)な死に方であり、言語に言いあらわすことができないほどでございました。」(口語訳・宮本)と記している(註)。
彼等はそれより25年以前(1613年10月7日)、有馬川の川原で林田リアン助右衛門ら3家族13人が、生きながらに焼き殺され殉教した事件の光景―中でも「灼熱の燠(おき)を両手で持ち上げ、それを自分の頭の上に掲げ、そして、右手の上に頭をもたせかけ」ながら死んだ林田助右衛門の娘(20歳)マダレイナの姿を目撃した人々であった。
長崎の著名なキリシタン史研究家某氏は、「島原の乱はキリスト教信仰とは無関係だ」と言い張って憚らないが、両者が一本の線で結ばれていることは明らかだ。25年という歳月は、島原半島のキリシタンにとって、「在りし日」の自身のことであった。
封建社会の武士たちが島原の乱における女・子どもらの行動を「奇特」であると評した、そのような人々を、自由主義社会のこんにち云々するキリシタン研究もまた、彼等に向き合う心の姿勢が問われてくるように思えた。
筆者が加津佐の浜辺、松林の中にあるキリシタン墓碑に1987年から21年間、通い詣でた記憶は、つい昨日のこととして覚えている。写真は2014年11月、同墓碑を訪ねた際、持参したノートから紙一枚を破り取り、墓碑に押し当て、付近の草葉で写した花久留守(クルス)である。
…猶々、城中の家やけ候時、扨々つよき男女之死様にて御座候、やけ候火を手にておしあけ中へはいり申候もの多御座候、…
(『綿考輯録・巻四十七』、「三月朔日、今度有馬城乗の始末を(細川)三斎君ニ被仰上、松平出羽殿へも被仰越候御書」)
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