島原の乱異聞―美輪明宏さんの証言
天草四郎時貞が美輪明宏さんに霊媒者を通して現れたとき、彼があの世から語った島原の乱に関する実話が美輪さんの某著書(註)に載っている。「あの世」の存在を頭から信用しない「この世」の歴史家たちをよそに、東京から島原半島のキリシタン史を訪ねて来たクリスチャンC氏、S氏に原城本丸でそのさわりを語ってみた。
■四郎の首は人違い
天草四郎時貞の首は、諸記録史料によると、細川藩藩士・陣野佐左衛門が焼け落ちる「四郎が家」に飛び込み、討ち取ったことになっている。ところが、あの世の四郎は「ちがう。あれは儂(わし)の首ではない。儂を育ててくれた養育係で、南有馬の磯野三左衛門という者がいた。その倅(せがれ)の磯野運之丞と申す者の首じゃ」、と証言する。
いきさつは以下のようである。すなわち、四郎の父が多忙で方々に出かけることが多く、そのため、磯野三左衛門が四郎を養育していた。島原の乱事件当時、磯野氏は「陣野佐左衛門」と変名し、キリシタン諜者(スパイ)となって熊本藩主細川氏に仕えていた。
一方、彼の倅・磯野運之丞は、天草四郎とともに原城に入り、キリシタンとして運命をともにした。最期は自害したらしい。
美輪明宏氏によると、「落城の際、父磯野三左衛門(=陣野佐左衛門)は原城に戻り、もういよいよ最期だというときに、自害した自分の息子の首を切り落とし、これを〈天草四郎の首〉だと嘘をついて細川方へ持参した」、というのだ。
いきさつは以下のようである。すなわち、四郎の父が多忙で方々に出かけることが多く、そのため、磯野三左衛門が四郎を養育していた。島原の乱事件当時、磯野氏は「陣野佐左衛門」と変名し、キリシタン諜者(スパイ)となって熊本藩主細川氏に仕えていた。
一方、彼の倅・磯野運之丞は、天草四郎とともに原城に入り、キリシタンとして運命をともにした。最期は自害したらしい。
美輪明宏氏によると、「落城の際、父磯野三左衛門(=陣野佐左衛門)は原城に戻り、もういよいよ最期だというときに、自害した自分の息子の首を切り落とし、これを〈天草四郎の首〉だと嘘をついて細川方へ持参した」、というのだ。
■四郎の最期
美輪明宏さんの証言によると、天草四郎が霊媒者を通して現れたとき「苦しそうな」状態であったたため、美輪さんが「どうなさったのですか?」と訊くと、「儂(わし)は火の中で死んだ。死後の醜い姿を見せとうなかった」という。
キリシタンが「火の中で死んだ」という記録は、細川藩の史料「綿考輯録・巻四八」にもある。「(原城)本丸にてきりしたん自害の躰、此の方の者(=細川藩の兵士たち)多勢見申し候。小袖を手に掛け、焼け申し候。おき(燠)を上へ押し上げ(その)内へ入り候者、多く御座候。また子ども以下を(火の)中へ押し込み、(その)上へ上がり死に候ものも多く見え申し候。なかなか奇特なる下々の死、言語に絶へ申し候事」、と―。寛永15年2月28日、本丸「四郎が家」での出来事だ。
四郎は、秘密の地下室を通じて逃亡したなどの説もあるが、彼等の行動―「立上り(再改宗)」の目的は、聖地原城でキリストとともに「悲しみ節」を過ごし、罪の償いをしたあと、ハライソを目指して「死ぬ」ことにあったので、逃亡説は意味をなさない。美輪氏の証言通り、「火の中で(焼け)死んだ」というのが真実であったにちがいない。ただし、史学では細川藩の記録史料は用いても、美輪氏の啓示的証言は史料として取り扱わない。
※註…美輪明宏著『霊ナァンテコワクナイヨー』(2004、(株)パルコ出版)194~195頁。
※註…美輪明宏著『霊ナァンテコワクナイヨー』(2004、(株)パルコ出版)194~195頁。
天草四郎肖像画 |
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