中国商人陳九官の記憶―長崎大波止の「鉄玉」
アマゾンに注文していた飯嶋和一著『出星前夜』が届いた。先般、東京から来たクリスチャンが話題にしていたので取り寄せたものだが、小説にしては資料の引用が詳細で、読み応えがある。
転びキリシタンの立ち上がり(再改宗)事件「島原の乱」(1637~38年)を鎮めるため、唐人・頴川(えがわ)官兵衛(中国名・陳九官)が長崎奉行に進言して中国兵法の武器「木鉄炮」(別名「木石火矢」)を長崎で拵え、中国船で原城に運んで来たのは、同書で「(寛永15年=1638年)陰暦2月15日」となっている。
同兵器「木鉄炮(きでっぽう)」、「木石火矢(きいしびや)」については細川藩、鍋島藩などの諸史料に部分的に記述されている。全体像が掴みにくいものの、それらを総合していくと、たしかに「巨大な丸太をくり抜いた木製大筒」(同書)のような兵器像が浮かび上がる。「その見たこともない木製の大筒は、砲口の直径は3尺もあり、砲尻までの長さが5間(約9㍍)に及ぶものだった。木製の破裂を防ぐため竹の箍(たが)で3尺おきにくくられていた。25人がかりで運ばれてきたその大きさに誰もが仰天した。中に込める砲弾は径3尺もの鉄製で、それを一度に2発使用する。それに人の頭部ほどの鉄製弾丸を25発込める。火薬はなんと一度に3千斤(約1・8トン)用いるのだという。」(同書)
著者飯嶋氏がこの兵器の名称を「―大筒」としたのは、一般の大砲と同じように弾丸を発射させるしくみの兵器と理解したためであろう。「夜間…鍋島家の仕寄せまで運び、砲口を本丸石垣に向けて、筒尻はななめに掘り下げた地面に埋める。火縄を長く延ばし、それに点火して爆発させ、本丸跡の石垣ごと根こそぎ海の方へ吹っ飛ばすという。」(同書)と記している。
筆者が確認したのは、それとはやや異なる。「城(原城)のかたの土居(崖)に穴を(30間ほど)堀り込み」、「その中に」これを「仕掛け」、「筒尻を地底にあて、火縄を長く仕り、火の渡り候加減に仕り候」もの、すなわち本丸の崖に横穴を30間ほど堀り、その地下に仕掛けて爆破させると「城の本丸、二の丸にかけて海へはね申し…石垣以下ちり申すべき」兵器、つまりは木製の筒ごと爆破させる「巨大ダイナマイト」的な兵器であった。
『出星前夜』の著者飯嶋氏が、砲弾の大きさを「径3尺」(約1㍍)としたのは、何かの間違いであろう。それは木製大筒の口径であって、これに直径3尺の砲弾を込めるのは不可能である。鍋島家の史料に「この(兵器の)鉄玉、いま長崎江戸町(の)波止場に残りて有り」とあるので、現在も長崎市に存在する「大波戸の鉄玉」(径約52㌢)がその現物である。
先般、この件に関し長崎新聞2015年3月25日付に寄稿した。
島原の乱にかんする書籍は数え切れないほどあるが、中国兵法の兵器「木鉄炮」について触れたものは飯嶋氏の作品以外、見たことがない。誰かご存知の方があれば、御教示いただきたい.
先般、この件に関し長崎新聞2015年3月25日付に寄稿した。
島原の乱にかんする書籍は数え切れないほどあるが、中国兵法の兵器「木鉄炮」について触れたものは飯嶋氏の作品以外、見たことがない。誰かご存知の方があれば、御教示いただきたい.
長崎市大波止の鉄玉 |
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