2016年2月10日水曜日

禁教期潜伏キリシタンを支えた托鉢修道会の信仰

 こんにちに至る2000年の世界史は、詰まるところキリスト教の歴史であった。日本は、明治以降、世界史・キリスト教の潮流に合流したが、じつはそれより300年ほど以前、「キリシタン時代」と呼ばれる、世界史に組み込まれた時代が存在した。江戸時代、徳川幕府がこれを禁止し、弾圧したことにより、日本におけるこれら二つの世界史時代は隔離された。

 このたびの「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録推進運動は、これら二つの時代を秘かに連結した「禁教期かくれ・潜伏キリシタンの時代」を、世界史潮流に照らして人類の普遍的価値として見いだし、評価しようとするものである。従って、これは従来の日本史を世界史の観点から「読み直す」ことであり、引いては日本そのものを再評価するための試みである、と言うことができよう。イコモスが「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」に関して、「禁教期の潜伏(かくれ)期に焦点を当てよ」と言うのは、その謂いであるに違いない。
 
 250年の徳川幕府による厳しい禁教・弾圧政策下で、彼ら潜伏キリシタンは如何にして信仰を維持したのであろうか。その理由こそ徹底して究明がなされるべきであろうが、残念ながら日本におけるこの分野の研究は遅れている。
 今ここに紹介するのは、田舎の貧乏書生が、「わが先祖史」として30年余取り組んだ「かくれキリシタン信仰の維持と復活の理由」の要旨である。

 大きくは2点ある。
 ■1つは、かくれ(潜伏)期のキリシタンは、イエズス会から托鉢修道会―おもにフランシスコ会、ドミニコ会―に再改宗していたことである。(実のところ、日本キリシタン史研究はこの事実さえ認識していない)。
 両者の違いは複数あるが、この場合、インズルゼンシア(贖宥)の有無を挙げねばならない。イエズス会とそのコンフラリア(信心会)にはこれが無く、托鉢修道会とそのコフラディアは、これを「豊かに」有していた。
 インズルゼンシアは、「ローマのパパさま」(教皇)から下賜された「贖宥」(償いの免除=ゆるし)であり、日本人信者にとっては「御恩」とみなされた。これを受けることにより、「ローマのパパさま」とのつながり・絆を育み、その一方で、日本人特有の精神文化「ご奉公」に連結された潜伏キリシタン特有の信仰を育んだ。
 ■2つ目は、「かくれ信仰」を維持する工夫として、コフラディア(信心会)をもち、集団で信仰を維持しつつ、その中で転びの罪を償う為の祈り「コンチリサンのオラショ」を欠かさなかったことである。「マタイによる福音書」18章20節に 「ふたりまたは3人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」とあるように、ここに神が生きてはたらき、聖霊の役事を可能にするものであった、と考えられる。
 キリスト教信者が生きた信仰を維持するのに、コンチリサン(悔悛の祈り)が果たした役割がいかに大きいか、2000年のキリスト教の歴史を見ると理解できる。平戸・生月系のかくれ信仰が長い「かくれ」を経て土俗信仰に変容し、長崎(浦上)・外海系かくれキリシタンのような「復活」を為し得なかったのは、「コンチリサンのオラショ」を伝承しなかったことが大きな要因であった。
 「コンチリサンのオラショ」を教える文書『こんち里さんのりやく』によると、原則として罪を司祭(コンヘソーロ)に告白すべきことが記されている。幕末に来日した宣教師司祭との邂逅を果たし、奇蹟の「復活」をなし得たのは、一に「コンチリサン」を守り通したことであり、そこに神の生きたはたらき、「聖霊の役事」がなされたことに因る、と言えるであろう。
 
 托鉢修道会が禁教期潜伏キリシタンの信仰維持に大きく関与した史実は、これまでほとんど語られることはなかったが、近年、東京大学史料編纂所の岡美穂子助教によって、長崎外海に伝承された絵画資料をもとに明らかにされつつある(註)。
 筆者も、いくつかの証拠をつかんだ。たとえば、『こんち里さんのりやく』にかんして、一般にはイエズス会司祭の手になるものとされているが、「後悔(悔い改め)」の程度をイエズス会史料『サカラメンタ提要』と比較してみると、明らかに異なる記述が見られる。故に、これは「達したる(徹底した)後悔」を旨とする托鉢修道会の手によって編集されたものである、と考えられるのだ。
 また、ドミニコ会の信仰が長崎、大村、島原(三會)地域に及んだ状況は、ドミニコ修道会のディエゴ・コリャード神父が同地域の信者から徴収した文書によって知ることができる。
 それらの拠点となったのは、言うまでもなく長崎のサント・ドミンゴ教会、サン・フランシスコ教会である。長崎市勝山町のサント・ドミンゴ教会跡は、幸いにも遺跡が保存されているが、上記世界遺産登録推進審議の過程で除外された。禁教期潜伏キリシタンを物語る上で欠かせない遺構であっただけに、惜しまれる。
サント・ドミンゴ教会の回廊跡遺構(長崎勝山町)
 ※註…岡美穂子助教の代表的論文に、「外海地方のキリシタン絵画にみる托鉢修道会の痕跡と「贖宥」」(『長崎県内の多様な集落が形成する文化的景観保存調査報告書 論考編』、長崎県文化財調査報告書第210集、2013年)。「長崎外海のカクレキリシタン信仰に見る托鉢修道会の布教活動」(『キリスト教文明とナショナリズム―人類学的比較研究―』(2014年、風響社)などがある。 
 

2016年2月7日日曜日

「教会群」よりも「かくれ」信仰の解明を!

 教会群とキリシタン史遺産の世界遺産登録推進に取り組んでいる長崎県であるなら、公共図書館にキリシタン史専門の関連図書が必ず備えてあるはず―、そう思いつつ県立図書館をはじめ各市の図書館をネットで検索しても見つからず、半ば諦めかけていた書籍を今月4日、福岡市内で偶然、探し当てた!同市総合図書館で『文学第13巻第5号』(2012年9-10月号、岩波書店発行)、同県立図書館で『キリスト教文明とナショナリズム―人類学的比較研究―』(2014年3月、風響社発行)、この2冊だ。前者に「贖宥の祈り―マリア十五玄義図とオラショの功力」が、後者に「長崎外海のカクレキリシタン信仰に見る托鉢修道会の布教活動」が掲載されている。いずれも岡美穂子東京大学史料編纂所助教の論文だ。

 不思議なことに同日夜、宿泊先のホテルで、ユネスコ諮問機関の国際記念物遺跡会議(イコモス)が日本政府に対し「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録申請の推薦を取り下げ、推薦書を作り直すよう要請している旨のニュースを知った。驚きと同時に、内心「やはりそうか」と思った。考えられる理由はひとつ、普遍的価値のあぶり出しが不十分であったこと。―でなければ政治的理由として、シリア難民の世界拡散によるイスラム教との関連性もあり得る。
 翌5日午前、福岡市総合図書館を訪れ、新聞コーナーに急いだ。イコモスが日本政府に改訂を求めているのは、「(教会群中心に記述された)現状の推薦書を書き直し、禁教期に焦点を当てるよう勧めている」(読売新聞)ことだ、と判明した(註)。
 「禁教期に焦点を当てよ」と言うのは、具体的には「かくれ」時代のキリシタン信仰―禁教下で250年にわたり信仰を伝承し、幕末、再び司祭に出会って「復活」したことを指す。
 長崎県が当初、この案件による世界遺産登録に取り組んだのは、そのような精神遺産ではなく、和洋折衷の独特の建築様式をもつ教会群であり、「かくれ」信仰は推進運動の過程で追加されたものであった。その成り行きからして「かくれ」信仰の究明に関しては、十分な研究と審議、対策が講じられたとは言えないであろう。

 結論として私見を申し上げるなら、「かくれ」時代の日本キリシタン史の問題は、イエズス会とその関連史料を中心に取り組んできた従来の日本キリシタン史研究だけでは解明が困難である。長崎地方の「かくれ」の信仰は、イエズス会ではなく、1614年幕府の禁教令発布を前後して「転び」キリシタンの「立上げ」(再改宗)で精力的に尽力した托鉢修道会―とくにフランシスコ会、ドミニコ会の信仰とそのコフラディア(信心会)が色濃く反映されていたからだ。
 現時点において、かくれキリシタンと托鉢修道会との関連を指摘し、解説した研究者・論文は、残念ながら少ない。出色なのは、冒頭で触れた岡美穂子先生である。私が固執して探してきた岡助教の論文は、その代表的なものであるから、長崎県はその関連図書を県内の図書館に配架すべきであろうに、お粗末すぎた。
 今回のイコモスによる推薦書取り下げ・改訂勧告が、本県関係者の意識を覚醒させてくれるだろうか。「焼き直し」で済む、と考えるなら、この先も難航が予想される。

…長崎新聞(2月5日付)は次のように報道している。「(長崎)県によると、1月下旬に文化庁から『イコモスから届いた中間報告で、キリスト教の禁教と潜伏の時代に重点を置いて説明すべきと厳しく指摘されている』と連絡があった。現状ではイコモスが5月ごろに出す勧告の内容が『登録延期』になる見通しと説明を受けたという。」
福岡県立図書館で「キリスト教とナショナリズム」を閲覧した際の同館「所蔵レシート」

 
 
 
 

2016年1月13日水曜日

「転び証文」を取り戻す寺社放火―島原の乱を解く⑦

 ゆるしの秘蹟における罪の償いは、一般的にはオラショ(祈り)やゼジュン(断食)、ジシピリイナ(鞭打ち苦業)、奉仕等が課せられる。ところが、日本のキリシタン時代にはこれに加え、「転び」の過程で「転び証文」に署名し、異邦神を祭る寺社を建立し、転びを隠すため寺社に参拝するなど、戒律違反の行為があったため、その精算が求められた。具体的には、転び証文を取り戻し、寺社を処分することなどである。
 天草の転びキリシタンの「寛永10年(1633)6月25日」付け「きりしたんころび申書物之事」(註1)に、次のようにある。

 「私儀数年きりしたんにて御座候へども、先年御改(おんあらため=幕府によるキリシタンの強制改宗)に付、ころび申、一向宗に罷成(まかりなり)、書物に差上申候……内証にてばて連(宣教師)のゆるし御座候共、此書物取戻し不申(もうさず)候ては、きりしたんに立帰り申事、不成(ならぬ)教(おしえ)にて御座候…」

 「書物」とは、「転び証文」のこと。「ばて連(司祭・宣教師)」の「ゆるしの秘蹟」にあずかったとしても、「転び証文」を取り戻さなければ「立上り」ができないことを彼らは承知していたのだ。

 島原の乱事件の一連の行動のなかで、「立上り」、原城に集結するまでの間に神社・仏閣を焼き払い、僧侶・神官・役人らに改宗を迫り、または殺害した行動がある。それらは、あたかも「過酷な年貢徴収に憤った農民が、信仰に結束して蜂起した」かのように見えるため、史家たちはこぞって「農民一揆」と〈誤解〉したわけだが、彼らは「キリシタンに立ち帰れ!」とのみ主張したのであって、「年貢を減免せよ」との一揆的要求など、一切しなかった。一揆ではなかったのだ。―とすれば、その意図するものは何だったのか?
 じつは、これこそがデウスの戒律―とくに第一戒「われ以外神とするなかれ」―を犯した罪、すなわち寺社建立や寺社参拝の罪を精算し、「転び証文」を取り戻す、彼らの「きりしたんの作法」に基づく「立上り」の信仰所作、つまりは償いの一環としての行動なのであった。

 「転び証文」は、村々の旦那寺に所在したであろうし、寺社に放火することは、すなわちそれを取り戻すことでもあった。
 島原城に攻め寄せたことも、同様である。そこにあった主要な仏寺を焼き払い、領主松倉氏に対してキリシタンに立ち帰ったことを表明する、「転び」たちの「言い戻し」(註2)であったと解することができよう。


 ※註1…肥後国天草郡高浜村旧庄屋上田家の記録「高浜村御門徒衆人数付之帳」
 ※註2…ドミニコ会神父ディエゴ・コリャードが1632年、ローマで刊行した『コリャド・懺悔録』に、「表面(うわむき)ばかりでもころぶ者が、いひもどさいでならぬ…」、「その奉行のせられた事共の日記(転び証文)はどこにあるぞ?すなはち、それを以て上(のぼ)られたらば、その奉行へ文(ふみ)なりとも、使を遣(や)つてなりとも、いひもどさいでは。」とある。「言ひ戻す」は、「転びを取り消す」意味である。
ドミニコ修道会のディエゴ・コリャード神父が1632年、ローマで発刊した「懺悔録」。転びキリシタンの告白証言、それに対する司祭の助言が収録されている。

 
 
 
 
 
 

2016年1月3日日曜日

「四郎法度書」に見る「転び」の償い―島原の乱を解く⑥

 原城に集結した島原・天草の「立上り」キリシタン約3万7千人が、幕府軍12万によって責め落とされる寛永15年2月28日(1638年4月12日)までの約3ヶ月間、彼らは如何に過ごしたのだろうか。一般には、戦いに備えたと解されているが、そうではなかったようだ。「朝夕、昼夜2,3度宛て、大将(天草)四郎が…法儀のすすめ(ミサ説教)」を執りおこない(『嶋原記』)、キリシタンたちも種々の信仰所作に勤しんでいた。
 司祭役・天草(益田)四郎が彼らに訓示した「四郎法度書(しろうはっとしょ)」(細川家史料)によると、「おらしよ・ぜじゆん・じしひりいな」(祈り・断食・鞭打ち)等の信仰所作の他に、「城内の普請(ふしん=造営・修理)」、「ゑれじよ(敵)ふせぐ手立、成程(なるほど=できるかぎり)武具の嗜(たしなみ)御念を入れらるべき事」などが記されている。
 城内の普請も、また武具の嗜みも、それは幕府軍と戦うためではなく、「ゑれじよ(幕府軍)」の攻撃によって信仰の諸所作が妨害されるのを「防ぐ手立て」としてであり、それらは、デウスの神の「格別の御慈悲」に対するキリシタンの「御奉公」―この場合、「キリシタン信仰者としての善のおこない」を意味する―であると言っていることに注目したい。
 このうち「おらしよ」については、とくに「前々よりの御後悔」と、「日々の御礼おらしよ」が示されている。「御後悔」とは「御後悔のおらしよ」すなわち転びキリシタンがもっとも重要視して唱えた「コンチリサンのオラショ(痛悔の祈り)」であり、「御礼のおらしよ」とは「さるべれじいな」(註1)であった。

 これらの信仰所作は、同史料にある「今程(いまほど)くわれすまの内」―いまはカレスマ(Quaresma、四旬節)の時である―の言葉から分かるように、転びの罪を償う行為であったと判断される(註2)。
 ―つまりは、「転び」が「立上る」ための「きりしたんの作法」であった。
 ちなみに、「ゆるしの秘蹟」は司祭に罪を告白(Confessio)するだけでは成立しない。痛悔(Contritio)と、償いの行為(Satisfactio)と、最後に司祭のゆるしの宣言(Absoltio)をもって完結する。

 彼らが真冬の原城に籠もり、「寒天の雪霜を凌ぎ」(矢文)ながら過ごした3ヶ月は、キリストの十字架死を記念する四旬節・聖週間にあわせ、転びの償いをするためであったことが理解されよう。同年(1638年)の「悲しみ節の上がり」・復活節(イースター)は4月11日(和暦2月27日)。この日、城門が開かれ、翌4月12日「和暦2月28日」に落城、全員の「首が切られた」。

 ※1…「さるべれじいな」の祈りに、「御礼をなし奉る」の言葉が2回登場する。よって、キリシタンたちが「日々の御礼のおらしよ」と称した祈りは、「さるべれじいな」を指すものと思われる。
 ※2…Cuaresma(四旬節)は、キリスト教暦で灰の水曜日から復活祭の8日前の土曜日までを言う。この間の日曜日を省いた週日は40日となる。日本のキリシタンはこれを「悲しみ節」と言った。キリストの死去前の苦難を想起して、祈り、断食、苦業によって罪を悔い改め、償いに励みながらキリストの復活祭を待ち望む期間とされている。
「四郎法度書」末尾部分。「益田四郎/ふらんしすこ」とある。

2015年12月19日土曜日

司祭としての天草四郎―島原の乱を解く⑤

 島原の乱が、「転びキリシタン」の「立上り」であったとするなら、キリスト教の作法に従って、一定の手続きを踏まねばならないであろう。
 その一つに、「転び」の罪を精算する「ゆるしの秘蹟」がある。これは、「洗礼以後に犯した罪を、教会の司祭を通してゆるし、罪人を神と教会に和解させる秘蹟」(カトリック要理)であり、司祭の介在を必要とするものである。
 転び伴天連クリストヴァン・フェレイラ(日本名・澤野忠庵)が長崎の西勝寺に遺した「きりしたんころび書物之事」に、「真の立上(たちあげ)と申事、伴天連に逢不申(あいもうさず)候ては、不罷(まかりならず)候、ひそかに我と立上候事、生得(しょうとく)なき事にて候」――ほんとうの立上りというのは、司祭に会って犯した罪を告白しなければならないことである。秘かに自分一人で立上ることなど、元来あり得ないことである――と述べているのは、そのことを指している。

 このような立上り作法の原則からすると、島原の乱事件の「転びキリシタン」3万7千人の「立上げ」に対して、司祭の役割を果たす人物がいなければならないが、その人こそ天草四郎であったと考えられる。
 そのように推論し、これを裏付ける史料を久しく探してきた筆者は、あるとき、『山田右衛門作口上書』の中にそれを発見した。「宗門の司(つかさ)」がそれである(註)。キリシタン時代、「司祭」という言葉がなかったので、「司(つかさ)」と称していたのであった。
 追って筆者は、ドミニコ会修道士ディエゴ・コリャードが嶋原・三會(みえ)地方の信者たちの証言を徴収した文書の一つ「元和6年閏12月3日付、ひせんて平左衛門尉証言」に、「こんはんや(=イエズス会)の司」とあるのを見つけ、確信した。
 いずれもキリシタン本人の証言に登場する言葉である。「宗門の司」とは、キリシタンたちが当時、「司祭」―もしくは、それ以上の存在―を表すことばとして用いたものであるに相違ない。

 加えて、熊本藩細川家史料『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』は、「(四郎は)人間にては無之(これなく)候と申候」、「四郎をば事外(ことのほか)敬(うやまい)候」と、「生捕之者」(生きて捕えられたキリシタン)の証言を記録している。普通の人間ではない、キリシタンたちから特別に敬われる存在であった、というのは、天草四郎=司祭説を補強するものである。
 『加津佐村寿庵の廻文』にある「天人」も、同様の意味をなすものと考えられる。

 ―天草四郎は、キリストの役事・ゆるしの秘蹟を行使する「司祭」の役割を果たした人物であった。ここにおいて「転びキリシタン」3万7千人の「真の立上げ」が可能となる。

 【註】…「其後、吉利支丹トモ打寄談合仕候ハ、兎角大矢野四郎ヲ引立、此宗門ノ司ト可仕由評議相極…」
天草四郎肖像画(旧島原芝田美術館所蔵・1991年普賢岳噴火災害で被災焼失)

2015年11月27日金曜日

迫害・難儀を受容するキリシタン―島原の乱を解く④

 キリスト教の信仰指導書のうち、古今の名著として親しまれている『こんてむつすむんじ』(「イミタチオ・クリスティ」、「基督に倣いて」)は、日本のキリシタン時代にも翻訳・出版され、愛読された。
 3万7千人の「立上り」キリシタンの指導者であり、司祭役でもあった天草四郎も、おそらくこの本を読んだものと思われる。同書第31「ちじょく(恥辱)となんぎ(難儀)にあふ時、へりくだるこころをもてかんにん(堪忍)すべき事」の章で、キリシタンの大切なこころとして示される「堪忍(かんにん)」と「謙(へりくだ)り」のことばが、「四郎法度書」で二度繰り返されるからである。

 四郎は籠城中、朝に夕にミサを執り行ない、キリシタンたちの信仰が人間的・肉体的弱さゆえに疎かになるのを戒め、「かんにん」と「へりくだり」をもって「でうす(神)へ祈念」し、「御慈悲(=神のゆるし)を蒙る」よう勧めた。その内容は「四郎法度書」によってうかがうことができる。
 『こんてむつすむんじ』によると、「かんにん」と「へりくだり」は「かんなん(艱難)」「なんぎ(難儀)」に対する大切な対処法であり、心がけであった。その理由について同書は、「うきよ(浮世)のさいなん(災難)は、なんじ(汝)がごしょうたすかり(後生扶かり=死後の救い)のため」になるからであり、それゆえに、できれば艱難・難儀の試練を「喜んで堪える」ことが好ましいが、それができないなら、せめて「かんにんをもって受け流すことだ」、と説いている。

 注目したいのは、「災難は汝が後生の扶かりのため(にある)」という言葉である。同書には他にも、同様の趣旨で記された件(くだり)がある。
 「我に仇(あだ)をなす者は…デウスの御手より与へ給ふ。こころよく受け奉り(なさい)」(同書巻第3第12)。「この世の苦しみを受くる事、我が身の誤ちによって与へ給ふ」(同書巻第3第19)、などである。

 通常、艱難・難儀が特定の人物によってもたらされる場合、それを強いる相手「敵」に対しては反抗を試み、長期化して恨みを絡んだ場合は復讐にも至るであろう。
 これに対し、キリスト教は逆の姿勢―「苦しみを受けるのは、我が身の誤ちによって神が与える」と、むしろアニマのたすかりのために必要なものとして受けとめ、自身の罪の償いに資することを教えているのだ。実際には、個々により信仰の差があり、人間的捉え方をする場合も多いが、これが『こんてむつすむんじ』が教える世界であり、キリスト教徒の取るべき基本的信仰姿勢であった。
  
 「苦しみを受けるのは、我が身の誤ちによって神が与える。」―「転び」のキリシタンにとって、この言葉は身にしみるものであった。彼らは、罪を犯したゆえに今の苦しみがある、ということを知っていた。だからこそ「立上り」、償いをしてあの世に逝こうと思ったのだ。

 この「きりしたんの作法」によって、島原の乱事件(1637―38)を再検証してみよう。
 歴史の教科書をはじめ研究家、史家、小説家を問わず、島原の乱を語る人のほとんどが「為政者の圧政に対する反乱である」と主張して憚らなかった。そのような見解がはたして正しいか否か、些かでもキリシタンの心に近づくなら、その誤りに気付かされるであろう。
 彼らは、ほとんど農民であったが、四郎の呼びかけ―かづさ村寿庵の廻文―に呼応して集った人々、すなわち「転び」から「立上った」キリシタンであった。そうであれば、「きりしたんの作法」に従ってこの事件を読み解かなければならない。すなわち為政者の過酷な税の取り立てや、自然の災いによってもたらされる「この世の苦しみ」は、「転び」という「我が身の過ち」が原因で「デウスによって与えられること」であるから、これを「こころよく受け奉り」、よく償いをして、キリストに帰り、「後生(あの世)の扶かり」に至るべきである、と―。これが、キリシタンの作法によって解読される島原の乱事件の解答である。恨みや反乱、一揆といった従来の解釈は、キリシタンのこころと作法を知らないがゆえの、一方的な誤解であった、と言わざるをえない。

1610年(慶長15年)キリシタン版として出版された「こんてむつすむんじ」

 
 
 
 
 
 

2015年11月25日水曜日

「転び」はアニマの救いを失う悲しみ―島原の乱を解く③

 権力者によるキリシタン弾圧を恐れ、表面的にでもキリシタンであることを否定した「転び(ころび)」は、多神崇拝の日本人からすれば、さほどの問題ではなかったかもしれない。転んでも、いずれ迫害がなくなったとき戻ればいいではないか、というような、自分の都合で環境に合わせて生きる人間中心の御利益信仰感である。
 ところが、一神教のキリスト教は「天のみこころ」を第一とし、それが「地になること」、「わが(人間の)思いではなく、(天の)みこころがなる」ことを願う、神中心思想のヘブライズムが根本となっている。
 ゆえに、キリシタンを「転ぶ」行為は、律法―とくに第一戒「我以外、神とするなかれ」―を犯す重大犯罪であり、死に値する罪であった。結果、「転び」キリシタンは、原則として救いの根本である「後生(死後)のたすかり」(霊魂の救い)から外れてしまうことになる。
 原城に籠もった「立上り」キリシタンの「矢文」や、ディエゴ・コリャード神父が徴収した転びキリシタンの証言文書に、その辺りの転びキリシタンの事情・心情が述べられている。

 「きりしたんの宗旨は…別宗に罷りなること成らぬ教えにて御座候。…誤りて無量の天守(デウスの神)に背き…悲嘆(ひたん)身に余り候…」(「寛永15年正月13日、原城々内より御上使衆御中」宛矢文)

 「呵責しばしば止む無し…」(「2月25日、原城々中より上使・御近習中」宛矢文)

 「ころび申す者、数限りなく候…いづれも御出家(=司祭)衆には離れ申し、立あがり可申(もうすべき)便りも御座なく、昼夜かなしみに沈み罷居(まかりおり)候」(コリャード徴収文書「元和7年霜月10日、平左衛門等18人名連署証言」)

 その意味するところを現代語に意訳すると、次のようになる。
 ―「転び」をはじめ数多くの罪を犯し、デウスの神とその教えに背いてきたことですから、キリシタンにとって最も大切な後生(死後)の扶(たすか)り、アニマ(霊魂)の救いを亡くしてしまいました。そのような心の呵責が不断、絶え間なくありましたが、司祭もいなくなり、立上ることもできず、昼夜、悲しみに沈み、仕方がなかったのです。―

 「転び」隠れのままでは、キリストによる人間の根元的救いから洩れてしまう。この危機感が齢を重ねるごとに募り、それが極度に達した寛永14年(1637)秋、神の霊に打たれたようにして、あのような「立上り」の行動を採ったのだった(註)。
 「悲嘆身に余る」というのは、この場合、耐えがたい権力者の圧政が原因なのではなく、矢文にあるように「誤ってデウスの神に背いた」みずからの「転び」の罪に由来するものであった。アニマ(霊魂)という永遠なる存在の救いを失った「悲嘆―悲しみ」がいかばかりのものか、これもまた、キリシタン信仰を知らない異邦人には理解しがたい世界であった。

 【註】…一部の研究者は、某矢文―「正月、天の四郎より松平伊豆守様」宛矢文―に一言書き出された「(松倉)長門守殿への恨み」を取り出して、あたかも「一揆・反乱」であるかのごとく解説を試みているが、それは「矢文」の主張する本意ではない。老若男女3万7千人の生身の人間のことであるから、人間的思いが混入しているのはあり得るであろう。ましてや、彼らがイエズス会所属の信者であれば、宣教師たちもしばしば報復的行動をとって見せたことがあり、許容範囲との認識を持っていたのかもしれない。
 ところが、「立上り」という本来のキリシタン信仰を取り戻す段階になると、両者は矛盾することとなる。「四郎法度書」を見ると、司牧者天草四郎がそのような籠城キリシタンの人間的思いを諫めているのを確認することができる。