2016年2月10日水曜日

禁教期潜伏キリシタンを支えた托鉢修道会の信仰

 こんにちに至る2000年の世界史は、詰まるところキリスト教の歴史であった。日本は、明治以降、世界史・キリスト教の潮流に合流したが、じつはそれより300年ほど以前、「キリシタン時代」と呼ばれる、世界史に組み込まれた時代が存在した。江戸時代、徳川幕府がこれを禁止し、弾圧したことにより、日本におけるこれら二つの世界史時代は隔離された。

 このたびの「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録推進運動は、これら二つの時代を秘かに連結した「禁教期かくれ・潜伏キリシタンの時代」を、世界史潮流に照らして人類の普遍的価値として見いだし、評価しようとするものである。従って、これは従来の日本史を世界史の観点から「読み直す」ことであり、引いては日本そのものを再評価するための試みである、と言うことができよう。イコモスが「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」に関して、「禁教期の潜伏(かくれ)期に焦点を当てよ」と言うのは、その謂いであるに違いない。
 
 250年の徳川幕府による厳しい禁教・弾圧政策下で、彼ら潜伏キリシタンは如何にして信仰を維持したのであろうか。その理由こそ徹底して究明がなされるべきであろうが、残念ながら日本におけるこの分野の研究は遅れている。
 今ここに紹介するのは、田舎の貧乏書生が、「わが先祖史」として30年余取り組んだ「かくれキリシタン信仰の維持と復活の理由」の要旨である。

 大きくは2点ある。
 ■1つは、かくれ(潜伏)期のキリシタンは、イエズス会から托鉢修道会―おもにフランシスコ会、ドミニコ会―に再改宗していたことである。(実のところ、日本キリシタン史研究はこの事実さえ認識していない)。
 両者の違いは複数あるが、この場合、インズルゼンシア(贖宥)の有無を挙げねばならない。イエズス会とそのコンフラリア(信心会)にはこれが無く、托鉢修道会とそのコフラディアは、これを「豊かに」有していた。
 インズルゼンシアは、「ローマのパパさま」(教皇)から下賜された「贖宥」(償いの免除=ゆるし)であり、日本人信者にとっては「御恩」とみなされた。これを受けることにより、「ローマのパパさま」とのつながり・絆を育み、その一方で、日本人特有の精神文化「ご奉公」に連結された潜伏キリシタン特有の信仰を育んだ。
 ■2つ目は、「かくれ信仰」を維持する工夫として、コフラディア(信心会)をもち、集団で信仰を維持しつつ、その中で転びの罪を償う為の祈り「コンチリサンのオラショ」を欠かさなかったことである。「マタイによる福音書」18章20節に 「ふたりまたは3人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」とあるように、ここに神が生きてはたらき、聖霊の役事を可能にするものであった、と考えられる。
 キリスト教信者が生きた信仰を維持するのに、コンチリサン(悔悛の祈り)が果たした役割がいかに大きいか、2000年のキリスト教の歴史を見ると理解できる。平戸・生月系のかくれ信仰が長い「かくれ」を経て土俗信仰に変容し、長崎(浦上)・外海系かくれキリシタンのような「復活」を為し得なかったのは、「コンチリサンのオラショ」を伝承しなかったことが大きな要因であった。
 「コンチリサンのオラショ」を教える文書『こんち里さんのりやく』によると、原則として罪を司祭(コンヘソーロ)に告白すべきことが記されている。幕末に来日した宣教師司祭との邂逅を果たし、奇蹟の「復活」をなし得たのは、一に「コンチリサン」を守り通したことであり、そこに神の生きたはたらき、「聖霊の役事」がなされたことに因る、と言えるであろう。
 
 托鉢修道会が禁教期潜伏キリシタンの信仰維持に大きく関与した史実は、これまでほとんど語られることはなかったが、近年、東京大学史料編纂所の岡美穂子助教によって、長崎外海に伝承された絵画資料をもとに明らかにされつつある(註)。
 筆者も、いくつかの証拠をつかんだ。たとえば、『こんち里さんのりやく』にかんして、一般にはイエズス会司祭の手になるものとされているが、「後悔(悔い改め)」の程度をイエズス会史料『サカラメンタ提要』と比較してみると、明らかに異なる記述が見られる。故に、これは「達したる(徹底した)後悔」を旨とする托鉢修道会の手によって編集されたものである、と考えられるのだ。
 また、ドミニコ会の信仰が長崎、大村、島原(三會)地域に及んだ状況は、ドミニコ修道会のディエゴ・コリャード神父が同地域の信者から徴収した文書によって知ることができる。
 それらの拠点となったのは、言うまでもなく長崎のサント・ドミンゴ教会、サン・フランシスコ教会である。長崎市勝山町のサント・ドミンゴ教会跡は、幸いにも遺跡が保存されているが、上記世界遺産登録推進審議の過程で除外された。禁教期潜伏キリシタンを物語る上で欠かせない遺構であっただけに、惜しまれる。
サント・ドミンゴ教会の回廊跡遺構(長崎勝山町)
 ※註…岡美穂子助教の代表的論文に、「外海地方のキリシタン絵画にみる托鉢修道会の痕跡と「贖宥」」(『長崎県内の多様な集落が形成する文化的景観保存調査報告書 論考編』、長崎県文化財調査報告書第210集、2013年)。「長崎外海のカクレキリシタン信仰に見る托鉢修道会の布教活動」(『キリスト教文明とナショナリズム―人類学的比較研究―』(2014年、風響社)などがある。 
 

2 件のコメント:

  1. お尋ねしたいことがあります。清田ジュスタに関する記事を拝見させていただきました。宮本様の説が正しければ、現在の清田家・細川家は大友宗麟の血は引いていないということでしょうか?

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    1. 大友宗麟家と清田家・細川(立允)家との系譜的なつながりは、清田鎭忠が大友宗麟の娘ジュスタ(元一条兼定室)を妻としたことに求められます。問題となるのは鎭忠の子とされる鎭乗のことです。これについてイエズス会史料「一五八六年度年報」は、「(鎭忠・ジュスタ)夫妻に男の子がなかったので、ドン・パウロ(志賀親次)の兄弟を養子にした」と伝えています(志賀家から清田家に養子となった志賀親次の「兄弟」は、親次の兄「安芸守親孝」と見られます)。この件で佐々木様は「宗麟の血は引いていないのでは?」と思われたのでしょうか。家系を維持するため、武家社会では当時、養子を迎えることはよくあることでした。この場合、父鎭忠に男子がなかったとしても、女子によって家系を存続させたことですから、大友宗麟の血は清田鎮忠夫人・ジュスタの娘(志賀・清田鎭乗夫人)をもって引き継がれたと見ることができます。その子に清田家を嗣いだ「石見守」があり、また娘「幾知・圓通院」は細川忠興の後妻として迎えられました。幾知が生んだ細川立允(立孝)をもって細川家に宗麟の血が流れている、と言うことができます。
      念のため、付記しておきますが、私はイエズス会が書き残した文書史料をもとに、これらの史実を解き明かしています。清田家にどのような文書が資料として遺されているのかは、一切存じ上げていません。もし、そのような記録文書があれば、私も参考にさせて頂きたいと思います。

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