イエズス会による日本国へのキリスト教布教の過程で、ヴァリニャーノ巡察使が打ち出した日本文化順応方針(註1)は、一時的には効果があったものの、結果的には自己破綻をきたす要因となった。その最大の理由は、日本文化の根底にある「異邦の神々」と、キリスト教の「唯一神」信仰は元来、異次元のものであり、和合する性格のものではなかったことである。
「われ以外に何者をも神としてはならない」とある十のマダメント(Mandamento、十戒)第一戒は、旧約ユダヤ教の伝統を引き継ぐ新約キリスト教の根本教理であった。ヴァリニャーノ師が日本文化順応方針を打ち出したとき、一部の宣教師はその矛盾性に気付いていた節がある。
しかし、ローマ教皇を頂点とする厳格階級制のカトリックにおいて、イタリア人法学博士にして「東洋巡察使」なるヴァリニャーノ師の決定に、たとえ異議を唱えることができたにしても、方針変更は困難であったに違いない。
ところが1603年、ヴァリニャーノ師が最後(第三回)の日本巡回を終えて離日したとき、それまで燻(くすぶ)っていた布教方針是正論がにわかに台頭した。その具体事例を、ポルトガル様式キリシタン墓碑の導入に見ることができる。
それまで約半世紀にわたる日本キリシタン史のキリシタン墓碑は、日本文化順応方針に従って仏教様式の立碑(りっぴ)で代用されていた。その間、豊臣秀吉による伴天連追放令発布(1587年)があり、イエズス会は全国の教会、セミナリヨ、ノビシャド(修練院)、コレジオを閉鎖し、唯一「イエズス会の擁護に命をかけた」キリシタン大名ドン・ジョアン有馬晴信の領地・島原半島とその周辺地域に逼塞を余儀なくされた。そうした布教困難の状況を招いた原因として、異邦神に連結された日本文化への順応方針がキリスト教の戒律違反であるとの指摘が、イエズス会内部にあったものと思われる。当時、有馬晴信の領内にいたイエズス会指導陣は、ヴァリニャーノ師の離日(1603年)と相前後して仏教様式墓碑のキリシタン墓碑代用を改め、ポルトガル様式キリシタン墓碑の導入を開始した(註2)。
島原半島に集中分布する伏碑型ポルトガル様式キリシタン墓碑が慶長年間後期―1604年以降―に出現する謎は、いまだ誰も解明していないが、その理由はおおよそ、以上述べた経緯から説明されるであろう。
■異邦神にかかわった罪の償いとその遺構「仏塔石階段」
ところで、問題はその処理にあった。一般的には、単にキリシタン墓碑を変更するだけで済むことだろうが、キリスト教が「異邦神」と関わったこの問題は、ユダヤ教・キリスト教の伝統作法として、相応の償いを必要とするものであったのだ。
償いの程度は、犯した罪の種類にもよるが、第一戒を犯したそれは「モルタル科(とが)」すなわち「死に値する犯罪」として、より厳格な償いが要求された。熱心なキリシタンであり、イエズス会の擁護者でもあった領主ドン・ジョアン有馬晴信はこのとき、自らの居城である日野江城の二の丸に、それまで代用した仏教墓石で「償い」のための階段を構築し、晴信自身とその家族、家臣全員がある一定期間―おそらくは四旬節の期間―毎日これを足で踏み、異邦神の墓石を使用した罪を悔い、二度とこのような罪を犯さない決意をもって神父に告白し、ゆるしの秘蹟にあずかったと考えられる。この仮説を物語る資料が1998年、日野江城二の丸の発掘調査で出土した「仏塔石階段遺構」である。
ドン・ジョアン有馬晴信の居城「日野江城」二の丸から出土した「仏塔石階段」遺構 |
墓石を階段状に敷き詰めたこの謎の遺構をめぐっては、さまざま論議と解釈が飛び交っているが、大方はキリスト教による仏教弾圧のみせしめとする意見に集約される。しかし、そうであるなら一般市民が入ることもない領主の城郭に拵えるより、市井の目にふれる町中につくる方が効果的であろう。また、これが登城の実用に耐えない、一季の梅雨でも流出するほど稚拙なものであることは、素人の目にも明らかである。キリシタンたちが、何らかの宗教儀式のために、一時的に使用したものであると見るのが妥当であろう。
筆者は、当時のイエズス会を取り巻く諸事情、キリシタン墓碑が慶長期半ばに突如変換される謎、キリシタンの信仰作法など総合的に考慮して、上記の解答を割り出した。
「仏塔石階段遺構」は、日本のキリシタンが如何に厳格なかたちで罪の償いをしたかを証明する遺物であり、このあと、かくれキリシタンがその信仰を維持するのに重要な役割を果たすことになるコンチリサン(真の痛悔のいのり)(註3)を、目に見えるかたちで伝える希有なキリシタン資料である、と言うことができよう。
■惜しまれる日野江城の世界遺産(構成資産)除外
世界遺産登録を目指す「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産の一つにあげられていたキリシタン大名ドン・ジョアン有馬晴信の居城「日野江城跡」が、2016年5月、除外される事件があった。それは、ここにある「仏塔石階段」遺構の真の意味を誰も解明できなかったこと、そして、当地島原半島の全住民をキリシタンに導き、国家権力によるキリシタン迫害からイエズス会とキリシタンを擁護するため命を賭けた日野江城主・有馬晴信のキリシタン信仰とその功績を、正当に評価できなかったことが要因であった、と思われる。(2016年5月31日、宮本次人記)
※註1…ヴァリニャーノ師は、『日本諸事要録補遺』(1592年筆)で「日本の習慣や生活方法に順応する」、と表現している。
※註3…コンチリサン(Contricao)は、カトリックの「ゆるしの秘蹟」において求められる「心の底からの後悔」である。キリシタン時代、すでに1591年に出版された日本語版『ドチリイナーキリシタン』(キリシタンの教理)の中で、「ぺにてんしや(告解・ゆるし)のさからめんと」における三要素―痛悔・告白・償い―の一つとして説明されている。その重要性を指摘し、詳細に解説したのは『こんちりさんのりやく』であったが、その著述・発刊の年月「慶長8年(1603年)4月下旬」が、ヴァリニャーノ師の離日「1603年1月15日」の直後であるのは、留意すべきであろう。
「千六百三歳」(1603年)に著述された「こんちりさんのりやく」冒頭部分 |
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