2016年1月13日水曜日

「転び証文」を取り戻す寺社放火―島原の乱を解く⑦

 ゆるしの秘蹟における罪の償いは、一般的にはオラショ(祈り)やゼジュン(断食)、ジシピリイナ(鞭打ち苦業)、奉仕等が課せられる。ところが、日本のキリシタン時代にはこれに加え、「転び」の過程で「転び証文」に署名し、異邦神を祭る寺社を建立し、転びを隠すため寺社に参拝するなど、戒律違反の行為があったため、その精算が求められた。具体的には、転び証文を取り戻し、寺社を処分することなどである。
 天草の転びキリシタンの「寛永10年(1633)6月25日」付け「きりしたんころび申書物之事」(註1)に、次のようにある。

 「私儀数年きりしたんにて御座候へども、先年御改(おんあらため=幕府によるキリシタンの強制改宗)に付、ころび申、一向宗に罷成(まかりなり)、書物に差上申候……内証にてばて連(宣教師)のゆるし御座候共、此書物取戻し不申(もうさず)候ては、きりしたんに立帰り申事、不成(ならぬ)教(おしえ)にて御座候…」

 「書物」とは、「転び証文」のこと。「ばて連(司祭・宣教師)」の「ゆるしの秘蹟」にあずかったとしても、「転び証文」を取り戻さなければ「立上り」ができないことを彼らは承知していたのだ。

 島原の乱事件の一連の行動のなかで、「立上り」、原城に集結するまでの間に神社・仏閣を焼き払い、僧侶・神官・役人らに改宗を迫り、または殺害した行動がある。それらは、あたかも「過酷な年貢徴収に憤った農民が、信仰に結束して蜂起した」かのように見えるため、史家たちはこぞって「農民一揆」と〈誤解〉したわけだが、彼らは「キリシタンに立ち帰れ!」とのみ主張したのであって、「年貢を減免せよ」との一揆的要求など、一切しなかった。一揆ではなかったのだ。―とすれば、その意図するものは何だったのか?
 じつは、これこそがデウスの戒律―とくに第一戒「われ以外神とするなかれ」―を犯した罪、すなわち寺社建立や寺社参拝の罪を精算し、「転び証文」を取り戻す、彼らの「きりしたんの作法」に基づく「立上り」の信仰所作、つまりは償いの一環としての行動なのであった。

 「転び証文」は、村々の旦那寺に所在したであろうし、寺社に放火することは、すなわちそれを取り戻すことでもあった。
 島原城に攻め寄せたことも、同様である。そこにあった主要な仏寺を焼き払い、領主松倉氏に対してキリシタンに立ち帰ったことを表明する、「転び」たちの「言い戻し」(註2)であったと解することができよう。


 ※註1…肥後国天草郡高浜村旧庄屋上田家の記録「高浜村御門徒衆人数付之帳」
 ※註2…ドミニコ会神父ディエゴ・コリャードが1632年、ローマで刊行した『コリャド・懺悔録』に、「表面(うわむき)ばかりでもころぶ者が、いひもどさいでならぬ…」、「その奉行のせられた事共の日記(転び証文)はどこにあるぞ?すなはち、それを以て上(のぼ)られたらば、その奉行へ文(ふみ)なりとも、使を遣(や)つてなりとも、いひもどさいでは。」とある。「言ひ戻す」は、「転びを取り消す」意味である。
ドミニコ修道会のディエゴ・コリャード神父が1632年、ローマで発刊した「懺悔録」。転びキリシタンの告白証言、それに対する司祭の助言が収録されている。

 
 
 
 
 
 

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