2015年11月25日水曜日

「転び」はアニマの救いを失う悲しみ―島原の乱を解く③

 権力者によるキリシタン弾圧を恐れ、表面的にでもキリシタンであることを否定した「転び(ころび)」は、多神崇拝の日本人からすれば、さほどの問題ではなかったかもしれない。転んでも、いずれ迫害がなくなったとき戻ればいいではないか、というような、自分の都合で環境に合わせて生きる人間中心の御利益信仰感である。
 ところが、一神教のキリスト教は「天のみこころ」を第一とし、それが「地になること」、「わが(人間の)思いではなく、(天の)みこころがなる」ことを願う、神中心思想のヘブライズムが根本となっている。
 ゆえに、キリシタンを「転ぶ」行為は、律法―とくに第一戒「我以外、神とするなかれ」―を犯す重大犯罪であり、死に値する罪であった。結果、「転び」キリシタンは、原則として救いの根本である「後生(死後)のたすかり」(霊魂の救い)から外れてしまうことになる。
 原城に籠もった「立上り」キリシタンの「矢文」や、ディエゴ・コリャード神父が徴収した転びキリシタンの証言文書に、その辺りの転びキリシタンの事情・心情が述べられている。

 「きりしたんの宗旨は…別宗に罷りなること成らぬ教えにて御座候。…誤りて無量の天守(デウスの神)に背き…悲嘆(ひたん)身に余り候…」(「寛永15年正月13日、原城々内より御上使衆御中」宛矢文)

 「呵責しばしば止む無し…」(「2月25日、原城々中より上使・御近習中」宛矢文)

 「ころび申す者、数限りなく候…いづれも御出家(=司祭)衆には離れ申し、立あがり可申(もうすべき)便りも御座なく、昼夜かなしみに沈み罷居(まかりおり)候」(コリャード徴収文書「元和7年霜月10日、平左衛門等18人名連署証言」)

 その意味するところを現代語に意訳すると、次のようになる。
 ―「転び」をはじめ数多くの罪を犯し、デウスの神とその教えに背いてきたことですから、キリシタンにとって最も大切な後生(死後)の扶(たすか)り、アニマ(霊魂)の救いを亡くしてしまいました。そのような心の呵責が不断、絶え間なくありましたが、司祭もいなくなり、立上ることもできず、昼夜、悲しみに沈み、仕方がなかったのです。―

 「転び」隠れのままでは、キリストによる人間の根元的救いから洩れてしまう。この危機感が齢を重ねるごとに募り、それが極度に達した寛永14年(1637)秋、神の霊に打たれたようにして、あのような「立上り」の行動を採ったのだった(註)。
 「悲嘆身に余る」というのは、この場合、耐えがたい権力者の圧政が原因なのではなく、矢文にあるように「誤ってデウスの神に背いた」みずからの「転び」の罪に由来するものであった。アニマ(霊魂)という永遠なる存在の救いを失った「悲嘆―悲しみ」がいかばかりのものか、これもまた、キリシタン信仰を知らない異邦人には理解しがたい世界であった。

 【註】…一部の研究者は、某矢文―「正月、天の四郎より松平伊豆守様」宛矢文―に一言書き出された「(松倉)長門守殿への恨み」を取り出して、あたかも「一揆・反乱」であるかのごとく解説を試みているが、それは「矢文」の主張する本意ではない。老若男女3万7千人の生身の人間のことであるから、人間的思いが混入しているのはあり得るであろう。ましてや、彼らがイエズス会所属の信者であれば、宣教師たちもしばしば報復的行動をとって見せたことがあり、許容範囲との認識を持っていたのかもしれない。
 ところが、「立上り」という本来のキリシタン信仰を取り戻す段階になると、両者は矛盾することとなる。「四郎法度書」を見ると、司牧者天草四郎がそのような籠城キリシタンの人間的思いを諫めているのを確認することができる。

 
 

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